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この世に生まれて果たして幸せだったのか。 [essay]

夕暮れ.jpg

<谷津干潟に夕日が沈む位置に富士山のシルエットが重なった>

 

『無事之名馬(ぶじ、これ、めいば)』という言葉がある。

 

 文藝春秋社の初代社主で、芥川賞や直木賞の創設者としても知られる、作家・故菊池寛氏の造語だと言われている。その由来は、元々馬主としても有名であった菊池寛(以後敬称略)が、競馬関係者から書を求められた際に、中国は唐代の禅書である『臨済録』にある『無事是貴人(ぶじ、これ、きにん)』に想を得て、そう色紙に揮毫(きごう)したことに始まると、何かの折に読んだ記憶がある。

 確かにそうは記憶してはいるのだが、このところ記憶力の減退が顕著な僕であるからにして、また随分と前のことでもあるので、その出処が刊行本か文芸雑誌か、はたまたその他数多メディアの中の某かの情報によるものかは記憶が定かではない。

 だがしか〜し。今朝何を食べたかを昼にはすっかり忘れてしまっいても、昔の記憶については記憶の骨格が崩れることもなく、何故かえらく自信がある僕ではあった( ̄^ ̄)エヘンッ!

 因みに、直近の言動や出来事についての記憶は定かではない僕だが、昔の事は妙に詳細に覚えている。昔から記憶力は人一倍あるのが自慢だったりもする。しかしそれは自慢高慢バカの内の類いで、あまり褒められたものではない。

 なぜなら昔のことはよく覚えていても、最近のことはすぐに忘れてしまうというのは、実に典型的というか、それこそ紛う方なきご老〇の特徴だからだ!(^0^))☆爆笑☆((^Q^)v

 その一方で、石橋を叩いても容易には渡らないチョ〜慎重派の僕(それでも最近は寄る年波に勝てず随分とチャランポランになった)は、同時に自分に対しても厳しい。ゆえに自らの誤謬や記憶違いをけして許さない。というより齢を重ねて人間が熟れたのか、随分と角が取れてかなりいい加減になった反面、(最近はそれに反比例するように)より一層頑固になったというか意固地になった気もする。


<閑話休題>

 今は九十代半ばを超えている、もう数年で白寿に迫ろうという伯母(母の姉)は、今から二十年以上前に会った時に、僕との会話のなかでこう言った。

「人は歳を取ると素の性格というか性根が露わになるものなのよ。抑制が効かなくなるのね」

「だからお年寄りの多くは、我が儘になったり、すぐに癇癪を起こしてナースを困らすの。でもね、その中で温和でいつも微笑んでいて、口数も少なくて看護婦さんやお医者さんの言うことにも、素直に従ってくれる患者さんがたまにいるの。そんな人を見ているとね、にわかに仏さまが顕現なされたかのような、そんな穏やかな気持ちになるのよ」

 伯母は基督教系の病院に勤めたこともあるので、「神さまが降臨した」と言うかと思いきや、「ほとけ様が顕現されたかのような、云々・・・」と話されたので面白く思ったものだ。聞いてみれば、仏教に対する信仰心が篤くなったのは、ナイスでナースなお仕事をリタイヤしてからだという。

 ちなみに伯母は看護婦長(今は『看護師長』というのかな)の経験もある、古希を過ぎても尚、皆から敬われ慕われ続けた看護婦だった人だ。人に対して優しいだけでなく、自身への厳しさを併せ持っていた理想的な人でもある。いつも穏やかでそれでいて凜としていた。

 だから年老いて体が一回りも二回りも小さくなって、お顔が年齢相応に皺くちゃになっても、その容姿の印象は若い頃とあまり変わらず、今以て気高く美しいと思う。そんな伯母を想い出すと、人はそれまでの来し方(生き方)が、必ず顔に出るものなのだなぁと、熟々思う僕であった。

 今想い出すとそう感じるのだが、その時の僕は単純にこう思った。年老いて病院の世話になった時、看護師や他の患者さんに迷惑を掛けたり不快な面持ちにさせるそんな老い方は、決してしたくはないと。


08人に言われて気づいたのだがどうも私はスリムになったらしい.jpg

<鍛え上げた足ではあるがカモシカのような足ではない。ところで『カモシカの足』ってどんな足?>


 という訳で人は齢を重ねて老境に入ると、男女の区別なく感情の抑制が効かなくなって、それまでは抑えていた素の部分(根源的な気質=本性)が露わになるものらしい。我が儘な人はより我が儘になるのは理解できるが、穏やかな人が以前にも増して穏やかになるとは限らないらしい。人は還暦を過ぎて子どもに還るとするならば、それまで理性で保っていた良識という箍が外れ、素の性格の戻るのは必定か。


 この話を聞いて、今からそれを改めようと思う人もいるだろう。しかし僕の見立てからすれば、それまでの『来し方』(最近は老若何女を問わずそれを<生き様>と言うらしい)が、その人の<未来>である『行く末』を決定づけるのであれば、成人になって久しい者ほど今更ジタバタしても始まらぬ。

『三つ子の魂百まで』とあるように、とうに未来(行く末)の趨勢は決定づけられているからだ。

 逆に「俺は俺だ。好きなように生きるだけさ」と居直る者もいるだろうし、虚栄心からか己の後ろめたくも恥ずかしい過去を隠すために、若気の至りとばかりに返ってそれを美化して誇らしげに語るバカもいる。

 あまつさえ己のそうした恥ずかしい過去を誰かに明らかにされると、居直るばかりか途端に攻撃的になって嘘までついて他人を謀り、その一方で涙ながらに同情をかこったり自己の正当化を図る愚か者さえいる。

 そんな者らの特徴の一つに、<嘘も百回言えば真実になる>とばかりに誰彼構わず自分の嘘や言い訳を言い続けて、やがて誰もそれに異を唱えなくなると、自分の欺瞞に満ちた言動が世の中に受け入れられたと大いに勘違いをすることが挙げられる。

 その者の非を明らかにした人がそれで黙っていようものなら、それまでは批判の嵐が去るまで亀のように首をすぼめていたのに、途端に掌を返したように自分を正当化してあろうことか美化までする。そうして『災い転じて福となす(出典:戦国策<燕策>)』とばかりに、得意の絶頂をやがて迎えるのだろう。知らんけど!

 だが然し、僕はその行く末も、その末路も知っている。『禍福は糾える縄の如し』ではないが、良いことの後には必ず悪いことが待っている。そして喜びが大きければ大きいほど、その後の災いはより大きくなるのは必定だ。

 人は謙虚で誠実でなければならない。自己を正当化してはならないし、ましてや嘘で他人を貶めてはならない。どの様な時でもだ。そうでなければ『信賞必罰』・『因果応報』ではないが、必ずしやそのあとに偽りの言動に対するそれ相応の反動が来るものだ。

 皆は知らないかもしれないが『有頂天の次には必ず奈落の底が口を開けて待っている』ものだ。

 そのように幾ら己を偽り美化しようとも、嘘をついたりそのこと(欺瞞的行為)によって他人を貶めるに至ったとしたら、誰が何と言おうとどんなに弁明をしようと、人としてはもうお終いである。被害者を筆頭に、弁明を聞く者など一人としていない。それでもそうした欺瞞の徒に付いて来るのは、同類の嘘つきか反社会的欺瞞集団構成員か、はたまた人に騙されても気づかないお人好しか、饂飩や胡乱ならぬ愚鈍を絵に描いたような、総じて自分の考えを持たない愚昧な者ばかりである。(手厳しいが赦してね(o゚∀゚o)!!)

 それに僕は、嘘をつく人間と、言い訳をしたり居直る人間をけして赦しはしない。己を正当化したり美化したりといった欺瞞に満ちた人たちは、傍目からは目立つからそれに魅入られたり信用する人も出て来るだろうが、僕がそれに騙されることはない。世の中は、高邁高潔な人たちばかりで構成されている訳ではないことを、他人の話しの請け売りではなく実際に目にして知っているからだ。

 むしろ学歴や肩書きは高くても品性はお上品にも高潔とは言えず、人の粗探しや自分の嘘や欺瞞で他人が右往左往するの見て、それに嗜虐的喜びを見いだすような人たちの方が数に勝るのだから。子どもやティーンエイジャーの年代に、自分の優位な立場に立って弱い立場にいる者を虐めたり、自分より劣ると見做した者を殊更に見下したり、ネグレクトを常としていた者が、そう簡単に性根が変わるとは思えない。だがそういうのが何の咎も受けずに、そのまま大人になるのが、今の日本の実像だ。

 その一方で弱い者は弱いがゆえに、その立場を一層悪くする。それが日本の真実なのだ。だから狡っ辛い者ほど案外ガッコーの成績だけは優秀で、先生の憶えが良かったりもする。高学歴で経歴もご立派な超エリート、だがその一方で品性や性根がお世辞にも高潔とは言い難い。他人を蹴落とした結果の今のお偉い立場、そんなのが元〇財局長だったりもする。

 そうしていつものパワハラで、その者の指示により不正に手を貸したことに懊悩する部下を、結局のところ自殺に追い込んだりするのだ。しかも今以て反省すらしないこうした〇務省の元高級官僚がいることを世の中は容認している。少なくとも現政権与党や、あくまでも法理優先でそれに雁字搦めで、世間の常識や良識が一切通じず、頭がお堅い裁判官などはそうだと言えるだろう。まあそうでなければ出世などしないのだろう。

 つまるところエリート官僚らも、勝ち組と言われる在野の人達も、子どもの頃から世渡りだけは上手なのだ。だから誰も火中の栗を拾おうとはしない。すべてがそうだとは言わないが、過去の判例を重んてそこから一歩も逸脱しないとか、役人が前例主義に陥りがちなのは、もしそれで失敗でもすれば、キャリア組から零れ落ちるのを恐れているからだ。

 でもね、批判を極度に恐れたり、矢面に立つのを嫌ったり、他人を出し抜いてそれこそ蹴落としてでも、自分だけが良い思いをすればいいというのは、絶対に間違った考えだ。

 だがそうした本性を隠した人たち、つまり表目は真面に見えても実は虚飾や欺瞞に塗れた人たちは、(一見して社会性があるように見えても)根源的には人々やその社会に害悪をもたらしかねない。つまり、結果的には社会性の欠落した、それこそ唾棄すべき人間だと指摘しておこう。勿論そうでない人もいるが、高邁な考えを持ち尚かつ高潔な人格を有する人たちは、僕が見る限りにおいて今や超マイノリティーだ。

 それでもこれだけは覚えておいて欲しい。『巧言令色鮮し仁』という言葉は真実である。

 じゃあオマエはどうなんだという声が聞こえて来そうだが、僕は言行一致を旨とする生き方をしている。他人に恥じる生き方はしていない。そもそも「他人におもねるなどと言う恥ずかしい生き方をしたら人間お終いよ」と心底思っている。

 だからいつも自分の考えとは異なる大勢というものにはつかない。多数派の考えというものには総じて理性を感じられないし、感情的で時に寄って集って少数派を詰ったり攻撃したりするものが多い。そこに正義も正当性もありはしない。だとしたらたとえ少数派に甘んじたとしても、その方が遙かに人として正しい生き方だと思う

 それに元々多数派になろうとか、少数派じゃ嫌だとかそんなチンケな考えを持っていない。だから迷ったら大同に就こうなんてちっとも思わない。第一に僕は迷わないのだ。それこそ実際にも道に迷ったことすらないから、レース鳩よろしく方向感覚(正しい道を選ぶ感覚)は抜群だと言えよう。

 つまり自分の考えを持っているから迷うことなどあり得ない。そして自分を利する為に何かを為したこともない。そうすることが世の中や多くの人々にとって正しいのか正しくないのか、それがまずは基準にある。善も悪も僕には余り意味を成さない。そして正義こそが物事の中心にあるべきものだと思っている。

 口幅ったいかもしれないが、またそう取られても一向に気にしないが、僕の行動原理はそれに基づいている。

 

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<幾らナイトモードを備えるスマホでも、月蝕を捉えるのは難しい。夜なのにまるで昼のようだ>


 いつもながら話があちこちに飛ぶU3。・・・という訳で話を元に戻そう。

 上でも述べたように、石橋を叩いても容易に渡らないチョ〜慎重派(ホント加代?)の僕であるからにして、念のために己の記憶の誤謬を避ける意味で、尚かつ記憶の補完と増強を図るために、改めてネットを検索して中身を再確認するのと同時に、内容の補足と加筆増強を試みた。

 すると、菊池は日本競馬会の雑誌『優駿』に寄せた随筆の中で、競走馬の馬主であることの苦労と楽しみを語り、その中で、・・・「馬主にとっては、少しぐらゐ素質の秀でてゐるといふことよりも、常に無事であってくれることが望ましい。『無事之名馬』の所以である」・・・と記しているのを知った。

 記憶力よりも忘却力が徐々に勝りつつある僕ではあるが、これにより我が物覚えの能力は未だ健在であることを再認識し、「俺って。まだまだ捨てたものではない」と独り言つのであった(^0^)

 

 余談だが、前出の臨済録から来るこの『無事是貴人』とは、元々は禅の言葉(『禅語』から来たもの)だが、それが茶道に転用され一年の無病息災を言祝ぐ言葉として、今に伝わっているとのことである。

 うちの奥様は華道は池坊で、茶道は裏千家を嗜んでいるが、そんなことはつゆ知らず、案外浅学でなおかつ時折有頂天になる傾向がある。話し好きで社交的で、それこそ口から先に生まれてきたような典型的オバさんでもある。だから僕は、時折ここぞというタイミングで、うちの奥様に皮肉ならぬ鉄槌を下す。ここぞというタイミングとは、今さら己を美化したり、自己を正当化した時のことを指す。僕は硬軟併せ持つが、その硬い部分とは、『曲がったことが嫌い』ということだ。そうであれば我が妻にとっては、僕と結婚したのが運の尽きかも知れぬ。

 

 またしても脇道に逸れたので冒頭の『無事之名馬』という本題に戻ろう。

 意味としては言わずもがなだが、そのことについて我流の解釈をするついでに、それに派生してというよりむしろ更にその考えを飛躍発展させて、今回の結論に至る道を探ってみようと考えた。

 そもそも今回のタイトルは、何かを訴えたくて考えついたものではない。えっ、と思うかも知れないが僕は直感派でインスピレーションとイマジネーションを大事にする方だ。まずは感覚的にその場のその場の気持ちを某か引き出してみる。それがその時のテーマとなる。後は気まぐれでこうして思いつくままに書いている。でも中途半端でいい加減なことを書いているつもりは更々ない。

 と言う訳で、まことに恐縮ではあるが、敢えて『無事之名馬』について触れてみようと思う。

 幾ら才能があっても、怪我などで活躍が途切れてそのままフェイドアウトしてしまうスポーツ選手が少なからずいる。

 しかし一時期のみ人々の耳目を集める才能豊かな選手よりも、(人一倍の才能があることは勿論だが)地道な努力を重ね怪我もせず長期間活躍する選手の方が、案外人々の記憶にも、そのスポーツ界の記録にも名を残すことが多いのではなかろうか。

 だが、抜きん出た身体能力といったフィジカル面や技術面が他人よりも突出しているよりも、怪我もせず長期間活躍できることの方が、それ自体希有な才能だとも言えるのではないか。だが世の中はそういった地道な努力を重ねている選手よりも、派手なパフォーマンスに憧れるものだ。

 そのような(困ったら大同に就くような)人々は、自分の人生がおしなべて平凡かつ凡庸で、実に退屈な毎日だと思っているのかも知れない。それだからこそ「ああ、自分もこの人達のように脚光を浴びてみたい」と、思い願うのだろう。知らんけど(o゚∀゚o)

 僕はと言えば何かにつけ飲み込みが早く、それ故に一定の成果を得たと自分勝手に判断してすぐに飽きてしまう傾向が強い。また元々他人と自分とを見比べることの愚かさと虚しさを、他人の振りを見て知ってもいる。だから誰かに憧れたり羨むことはない。

 元々その煩わしさから他者と距離を置くことが多く、それゆえに競争心が人一倍乏しいのだ。だから他人と競争して切磋琢磨などしたことがない孤高の人だ。あるいは『孤立あるいはボッチの人』と、言い換えても良い(^0^))☆爆笑☆((^Q^)v。

 事ほど左様に、おしなべて人間嫌な僕だが、その反面幼少期より人恋しい一面もある。それと同時に、他人との接触が苦手な僕は、知らぬ間にスケープゴートや冤罪を被ることが度々あった。糅てて加えて孤高ゆえに苛めや仲間外れにされることが重なるにつれ、それに対抗策を採らざるを得なかった。暴力を振るわれたり、時には身の危険を感じるほどであったから、対抗上他人の言動について無関心ではいられなくなったのだ。

 必然的に人の心理を読み解く観察眼だけは人一倍鋭くなった。『人の振り見て我が振り直せ』や『他山の石』・・・だけではない数々の経験を経て、実に多くのことを学んだのだった。

 以前にも語ったように、幼少期の環境から孤高の人であった僕は、他者との関係で孤立したり排斥される傾向が強かった。そういうこともあって自己防衛のために身構えざるを得なかったのも事実だ。それだからこそ、心身ともに人並み以上に鍛えなければならなかったとも言える。

 しかしそれはちっとも褒められたことでも喜ばしいことでもない。僕を取り巻く世の中そのものが劣悪な環境だったからこそ、悲しいことにそうせざるを得なかっただけなのだ。


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<谷津バラ園の奥にある小さな公園にて。赤いコーンがなければ素敵な秋の風景だったのに>


 軋轢とは、自分を他人より上に置きたいと思い願う心から生じたものだ。であるからにして、競争心どころか他人と自分とを見比べて、あれこれ思ったことなど一度もない僕だ。

 今日こそは一日を平穏無事に過ごしたいと願っていても、他人と自分を比較することでしか生き甲斐を見いだせない連中は、いつも生け贄を探していたように思う。だからこそスケープゴートやイジメの対象として必然的に、(信じられないかもしれないが)一見して弱者に見えたり虚勢を張っている様に思える僕を選ぶのだ。

 過去幾多の例からすれば、そういった輩ほど正しさを唱える僕を、与しやすしと考えたようだ。

 当然ながら防衛策を講じざるを得なかった。その帰結として、『遣られたら遣り返す』、これを生きる上で第一義に置いた。しかし誰かに理不尽なことをされたからといって、同じことをその相手に遣り返す訳ではない。それでは奴らと同じになってしまう。それこそ今の理不尽で不条理な世の中そのものであり、悪徳の横行、あるいは悪意の連鎖が延々と続いてしまうではないか。

 元々『目には目を歯には歯を』が信条ではあるが、だからこそ、あらゆる行為に『正義』は必ず存在しなければならないと考えている。だからこそ、軋轢を生む競争心や他人を羨む心情よりも、それを回避するために、己の欲望を抑える克己心がはるかに勝るようになったのだ。

 人は周りに流されてはならない。常に正しくあらねばならないのだ。

 ゆえに『人の振り見て我が振り直せ』は真実である。

 過去にそうした軋轢に巻き込まれたり冤罪を被ったことが多々ある僕は、必然的に他人に対する観察眼も鋭くならざるを得なかった。人々の心の奥の機微(あるいは心理)を読み解くのに敏であらねば生きていけなかった。だからこそ反面的に、人々が自分の浅才や境遇を嘆く気持ちも、その反動として他人に対し競争心や敵愾心を懐く心理も分からないではない。だがしかし、分からないではないが、その犠牲者になる恐れが高い者としては、それを受け入れも許容もしないのは当然であろう。

 その一方で世の中は競争を好む人ばかりではないのも知っている。他人を羨む心情やそれ故の競争心に蝕まれている今の世の中だが、その真逆で他人との軋轢を嫌い、唯々日々を平穏無事に暮らしたいと願う人々もそれに倍しているのが現実だ。否、それこそ圧倒的過半数だろうと思いたい。

 一日を何ごともなく無難に暮らしたいと願う人たちが、イコール、日和見主義者や責任回避的傾向のある者、あるいは現実から目を背ける者ら(総じて僕が従前より主張する『パブロフの犬派の人たち』)ばかりではないとも思いたい。

 その中には、世間から一時期のみ脚光を浴びることよりも、地道な努力を人知れず重ねて結果として平凡な人生を送りたいと願い、それを理想の人生とする人々も当然いるであろう。しかし残念なことにそれこそ、『今やマイノリティーとなってしまったな善人』なのである。

 本当は善の心を持つ人々がマジョリティーになって、世の中が良くなったらいいのにと願う僕だが、現実を見るとその望みは叶えられそうもない。それに見せ掛けの善人よりも、正義の人の方を、むしろ好ましく思う僕だ。だからこそそれを日々実践している。お陰で気苦労が絶えないけどね。だがその正義の人こそが更にマイノリティーで、今やレッドデータブックに載るほどの絶滅危惧種である。

 であるからにして何の脈絡もなく唐突に、幸せを夢見る人たちや有名人の華やかな生活に憧れを懐く人たちを、非情にも奈落の底に突き落とす(*´∀`*)

『無事之名馬』を理想とする人たちに、夢想家でありながらもチョ〜現実派である僕は、冷徹に取り付く島もなく言い放つのだ。

『それは出来ない相談だ』と!

 平凡に生きるということほど実に難しいものはなく、ゆえに平穏無事な人生などあり得ないと断定しよう。僕は人生波瀾万丈が常だと、ある意味達観ならぬ諦観をしている。

 重ねて言おう。平凡こそが実は為しがたい。それが現実であり、人生というものの実体だ。

 という訳で、殆どの人々は『無事之名馬』にも、『無事是貴人』にもなれはしない。

 事ほど左様に、多くの人々にとって波風が立たぬ平穏無事な時間など、実は長い人生の中ではつかの間のことであり、儚き夢のようなもの。

 毎日己の身の廻りの気づかぬところで少なからぬさざ波は起こっていて、それがある日突然大波となって、その身に降り掛かるのは必定と言えるのではなかろうか。

 You never know what will happen tomorrow.  〜明日何が起こるかなんて誰も分からない。

 ゆえに平穏無事も無病息災も、叶わないからこそ乞い願う、人々の心許ない心理から生じたものだと言えるのではないか。ちなみに僕は、何ごとかを為そうと思った時に、悪しき心根を持たないというルーティーンはあるが、誰かを頼ったり徒党を組んでそれを為そうとしたり、『困った時の神頼み』とばかりに、その場限りの願掛けなどはしない。

 僕は思うのだ。『赤信号、みんなで渡れば恐くない』というのは現実的ではなく、必ず誰かがスケープゴートになるように世の中は出来ている。みんなで渡っている時に、そこに〇ラックが突っ込んできたら、犠牲者が出るのは火を見るよりも明らかであろう。そうしたスケープゴートに、自分がならないという保証は、現実にはどこにもない。

 もしそうならないと自負している者がいるならば、また、他人を犠牲にしてでも自分だけは助かりたいとか、幸せになりたいと乞い願うならば、それは正真正銘の愚か者だと言えよう。善人であろうが悪人であろうが、有為の人であろうが愚才の者であろうが、何某かの専門家であろうがズブの素人であろうが、等しく災厄は予見できず尚かつ不可避だ。

 誰しもが望む望まないに拘わらず人生の荒波を少なからず経験せざるを得ないし、生きている以上、そこから目を背けることも逃れることもできはしない。

 思うに、自身や配偶者や我が子の平穏無事を願っていても、その願いも空しくそれぞれの思い通りにはならないというのが、人生というものの本質であり残酷な事実だ。

 そんな世の中で確実なものは、『さよならだけが人生だ』という真実のみ。

 

06谷津干潟の夕暮れその2.jpg

<人生の黄昏にはまだ早い>

 

<今日のU3の言葉>

 他人におべんちゃらを言ったり、自分を正当化したり美化する者は、人として信用してはならないものだと知るべきであろう。そのような人たちと関われば、朱に交われば赤くなるの譬え通りいつしか正常な感覚を失って、何が正しいのかさえ分からなくなり、何れはして良いことと悪いことの区別もつかなくなるものだ。

 人は華美に憧れ虚飾に騙される。だからこそ見た目や表面(おもてづら)だけを見て、人というものを判断してはならない。況してや危うき者達に近づいてはならないし、疑われるような者と徒党を組んだり同調してはならない。

『仲良し俱楽部』は一見楽しそうに見えるかも知れないが、いざとなれば『呉越同舟』に瞬時にその姿を変えるものだと知るべし。何故なら人々は一枚岩にはなれないし、本来は楽しいはずの『仲良し俱楽部』という矮小な世界でさえも、時を経れば必ずと言って良いほど仲間割れをするのは必定。糅てて加えて人は十人十色でしかも己の主張を曲げないとあれば、いずれは分裂・敵対するのは火を見るよりも明らかだ。

 そんな世界に縋ったり、仲間に入りたいと願う気持ちが僕には分からない。人と付き合うならば、何れは別れることも敵対するかも知れぬことを、未来のなかに想定しておかなければならない。ましてや懸念のある人たちに「ワルカッコイイ」などと近づいてはならない。人と付き合う中で一瞬でも懸念や危惧を懐くならば、いずれその危惧は現実のものとなり、杞憂は杞憂のままでは決して終わらない。己を保てる自信があっても、朱に交われば必ず赤くなるものだ。だからこそ・・・

 まさに『君子危うきに近寄らず』、『李下に冠を正さず』だと言えよう。

 ゆえに、己を指して「ストイックな生き方をしている」と称する者や、普段は善人ヅラしているくせに、唐突に人を貶めるような婉曲な言いまわしをする者を信用してはならないし、その者を褒めそやす者らを誰が信用できようか。

 況してやどこの誰とは言わないが、今の政治家は間違っているなどと、(大して自分の考えもないのに)どこから持って来たのかよく分からない、それこそ通り一遍の言説を持ち出して非難し、同調者を募るようなそんな取るに足らない偽善者ともなれば尚更だ。

 自分の考えを安易にネット上で公表するって、実は大変軽率なことだしリスキーで愚かな行為なんだよ。根拠もないいい加減なことを書いたら、それこそ寄って集って叩かれるのは必定だ。況してや賛同を得たいが為に他人の著作物を改ざんして、フェイクニュースまで垂れ流す者がいたとしたらどうだろう。これって本当にまともな人たちがすることなのだろうか。誰とは言わないが、そんなことも分からないおバカさんが実に多すぎる。

 本当に阿呆らしい世の中の現実。でもそれが今の世の中なんだよね。

 

 こうしてみると『さよならだけが人生だ』って、人の世の真理だなあと熟々思う僕であった。

 

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U3

☆皆さまへ☆
不定期ですが、記事の更新は続ける積もりなのでご安心を。
ただし、無理をしてまで更新するつもりはありません。
それと、記事そのものは今回同様に長文となる見込みです。
サラッと書くのってカッコイイかもしれませんが、私の性には合いません。
それに私の記事を読んで下さる方々の中には、他では見られない長文を期待して下さっている方も居られますしね。
ではでは皆さま次回作までご機嫌よう♡
by U3 (2022-11-26 08:29) 

なかちゃん

他人のおかしいところに意見をするには、自分自身が完璧というか、決して言行不一致があってはならないと思っています ^^
おかしいと思っても何も言わないことも多々ありますけどね。あまり指摘ばっかりしていると、疲れてしまいますし(^^;
若かった時の経験が、今のボクの人格形成にかなり影響を与えていると思います(^^)

by なかちゃん (2022-11-26 14:42) 

U3

☆なかちゃんさんコメントレス遅くなってごめんなさい。

>他人のおかしいところに意見をするには、自分自身が完璧というか、決して言行不一致があってはならないと思っています ^^

 確かにその通りです。でも多くの人達はそうではないみたいですよ。人が見てなければ多少の嘘や欺瞞は許されると考えているフシがあります。
 それを多くのブロガーが看過すれば、そうした嘘や欺瞞行為がどんどんエスカレートし、最後は犯罪紛い、あるいは犯罪行為そのものにならないという保証はどこにもありません。
by U3 (2022-12-04 11:00)