VOL.2/3
NHK討論番組「日本の、これから」”核”について考える。
<前号の概要と骨子>
番組の中での設問で、今後の日本の取るべき政策は?という問いに対して③核兵器を持つべきだ。 と答えた方が多かった事に対しわたしは”日本人として”強い違和感を覚えた。そこで彼らが現実的な対応だと主張している事の一つ一つに対してすべて根拠を挙げて実は彼らの主張とは逆にそれがまったく非現実的である事を証明し、本当の意味での日本が取るべき現実的な対応を具体的に提示する事にした。
VOL.2/3
NHK討論番組「日本の、これから」”核”について考える。
<前号の概要と骨子>
番組の中での設問で、今後の日本の取るべき政策は?という問いに対して③核兵器を持つべきだ。 と答えた方が多かった事に対しわたしは”日本人として”強い違和感を覚えた。そこで彼らが現実的な対応だと主張している事の一つ一つに対してすべて根拠を挙げて実は彼らの主張とは逆にそれがまったく非現実的である事を証明し、本当の意味での日本が取るべき現実的な対応を具体的に提示する事にした。
再度わたしの立場を冒頭に記載して置きます。わたしの選択は「①核の力に頼るべきではない」です。つまり”いかなるたぐいのものであれ核兵器はこれを持たない”という事を表明します。わたしの選択には「②アメリカの核の傘に守ってもらう」も無いし、ましてや「③核兵器を持つべきだ」という選択は絶対にありません。わたしはそれでも日本を核の脅威から守る事はできるという事をVOL.2/3とVOL.3/3を通して証明して見せます。
まず一、の「過去の歴史を見ても核兵器を持つ事によってそれが戦争抑止力になる事は明白。北朝鮮も日本が核を持てばおいそれと挑発も出来ないし核兵器を使用する事も出来ない。」から反論を述べてゆくとしよう。
過去の歴史といっても原爆が開発され実際にそれが不幸にも広島長崎で使用されてまだ63年しか経っていない。この発言をした人は①と答えた方々の歴史認識が甘いと非難したが、あなた方こそ認識が甘いのではないかとわたしは思う。人類が63年間核兵器を使用しなかったのは単なる僥倖に過ぎない。それを歴史を踏まえてこれから証明しよう。
米ソ冷戦時代のパワーバランスの均衡を指してそれが今後も続くと考えるのは甘い。その冷戦時代ですら実際にはキューバ危機(1962年)などあわや核による世界戦争勃発という危機的状況があったのだ。あの時ケネディとフルシチョフという米ソ両首脳のどちらかが理性を失っていたら今頃世界はどうなっていたか分からない。現実には若いケネディは国内では核戦争も辞さないと主張する米国防省やCIAの強硬意見を押さえ、かつ老獪なフルシチョフと若く血気盛んなカストロに手を焼き精神的に極限状態まで追い込まれながらも冷静に着実に国家の舵取りをしたのだった。そしてもしフルシチョフがそのケネディの提案を受け入れてキューバに配置した核をすべて撤去すると表明しなかったらと思うと背筋が寒くなる思いがする。③を選んだ人はその当時の緊迫感つまり「人類がはじめて世界の終わりを差し迫った現実のものとして実感した」あの数日間の極限の攻防をよく知らないか、知っていたとしてもその意味をまったく理解していないのだと思う。
人間は道具を持てば必ずそれを使いたくなるものなのだ。ピッグス湾事件に端を発したキューバ危機を見てもそれが分かる。現実に国防省は核の使用を強硬に主張し、キューバやソ連に向けて核ミサイルの配備を全て終えていたのだ。それを押さえたのはケネディの理性に他ならない。フルシチョフはこの事によって若きケネディがまったく侮れない指導者である事を知ったのだ。キューバ危機ではたまたま若く理想に燃えるケネディがいたから核戦争を回避できたが、国家が聡明な指導者を常に戴けるとは限らない。そして人間がいつも理性が働くとは限らないのは歴史が証明している事だ。
わたしは当時小学一年生だったが、今でもその時の事を覚えている。家に来て間もない白黒テレビを前に姉を傍らに座らせわたしを両手で抱きしめた母は「日本はまた戦争に巻き込まれるかも知れない」とNHKのニュースを見ながらつぶやいた。その意味を幼かったわたしはよく理解できなかったがいつもの母ではないその姿を見てとても不安な気持ちになったのを覚えている。今思えば母のあの言葉の裏には「もしかしたら私達は死ぬかも知れない」という思いがあったのだろう。父はその頃東京に出稼ぎに出ており家は母ひとりで守っていたのだった。
多くの人が歴史から何も学べないのはとても残念な事だ。この事も踏まえて③という選択をした人は核を持つ事が戦争抑止力になるというその根拠を明確な形で示して欲しいものだ。それが出来なければあなた方の様な人達に日本の将来を預ける事は出来ない。
核戦争はけして映画やゲームなどの絵空事ではない。一瞬にして多くの人の命を奪い、確実に半永久的に投下された大地を汚染し、不幸にして生き長らえた僅かばかりの人類を蝕み苦しめそして最後は死に至らしめる恐ろしい現実そのものなのだ。そしてそこに在るのは”世界の終わり”以外の何ものでもない。
米ソ冷戦時代に何故キューバ危機のような深刻な事態になったにも係わらず核兵器が使われる事がなかったのかについてわたしの考えを簡単に述べて置きたい。ひと言で云ってしまえば核兵器が米ソ間で使われなかったのは両国が超大国だったからに他ならない。理由は後で述べるが超大国だからこそ使わなかったし、使えなかったのである。人類の滅亡を一番意識していたのはおそらく冷戦時代の米ソ首脳経験者だったろう。全面核戦争を防ぐ為にキューバ危機以来両超大国間にはじめてホットラインが引かれたのはあまりにも有名な話である。それ以来、ベルリンの壁の崩壊によって東西冷戦が終結するまでの26年間世界の命運は米ソ間に繋げられたたった一本の細い電話線に託されていたのだ。
ところで冷戦時代はとうの昔に終結して今はテロとの戦いの時代である。そして核保有国が増えるという事は核兵器がテロリストの手に渡りやすくなった事を意味する。特に核不拡散条約(NPT)非加盟国である印、パ、北朝鮮からテロリストの手に核兵器が渡らないと誰が確約できるのだろう。この三国は国際法を犯してまで核兵器を開発保有した国なのだ。国際法令を遵守してくれると考える方が愚かであろう。
一旦テロリストの手に核兵器が渡ったらどうなるかは火を見るよりも明らかであろう。狂信的でないテロリストなど世界の何処にも存在しない。彼らは間違いなく自分達こそ「正義」だと思っている。「原理主義」とはまさにそういう事なのだ。彼らの主張する「正義」の為には入手した核兵器を間違いなく使用するだろう。だから「狂信的」なのだ。・・・「核のテロ」の危険性はもはや現実のものだという認識を持つべきであろう。
もう一つ重要な事を話そう。わたしは核の抑止力など絵空事だと思う。絵空事だと思うからこそ、それが成り立つ条件がテロリストにはない事は述べて置く必要があるだろう。
核の抑止力が心理的に成り立つのはあくまでお互いが何処の誰で何処にいるかが分かっている場合に限るのである。核兵器で相手国を攻撃すれば必ず同じ核兵器で報復されるという脅威があるから自制しなければならないという心理が初めて働くのである。ところがテロリストにはそれがない。これは極めて重要な事である。
つまりテロリストによって核攻撃がどこかの核保有国に対して為されたとしても、何処にいるか誰なのかも分からない状態では核兵器による報復も反撃すらも出来ないのである。もし犯行声明やその後の調査でテロリストが特定できたとしてもどうして彼らの居場所を特定できるのだろう。彼らの殆どは国家というものに属さない。しかもどこかの国に潜んでいる。そして潜伏中と思われるその国を核兵器で攻撃したら果たしてどうなるだろうか。ただの地域戦争でとどまる事はけしてないだろう。
例えばアル・カイーダは現在も活動中であり、オサマ・ビン・ラディンは生死すら不明で所在も明らかでない。幹部も自らも含めてその所在を明らかにしてはいない。そして北朝鮮は紛れもなく国家を挙げて犯罪を繰り返す狂信的な独裁国家である。どうしてこの様な現状で核の抑止力が働くのか③と回答した方々は説明して欲しい。わたしが核の抑止力など絵空事だと云ったのにはこの様な根拠があるのである。
絵空事は幻想であり幻想は現実ではない。
次に、二、の「日本は独立国家である。いつまでもアメリカの核の傘に守られていてそれで良いのか?自分の国を自分で守れなくて果たしてそれで自立した国といえるのか? 日本は核兵器を作るだけの技術力も資金力もあるのだから核兵器を作って自衛すべきである。それでこそ独立国家であると世界が認めるであろう」であるが、わたしはこの発言は戦前の日本の軍国主義と殆ど変わりない考えだと思いますが皆様は如何お考えでしょう。
ナショナリズムや国威の発揚という言葉にはどうしても胡散臭さがつきまとう。この発言をした人にはどうしてもそういう「臭い」を感じるのを禁じ得なかった。どうもこの方は日本が自立しておらず世界に独立国家として認めてられていない国だと思っている様だ。「現実を認識しろ」とか「歴史認識が甘い」とこの方も①の方達を指して発言していたが、この方こそ現実認識が甘く、歴史から何も学んでいない様に思えた。まあそれは③を選択した方々に共通して云える事なのだが・・・。
日本はサンフランシスコ講和条約によって国際社会に復帰し、その時以来名実ともに立派な独立国である。そして日本政府はその時その時の情勢に従って独自の舵取りをして本日まで存在しているのである。これの何処が独立国家でないといえるのだろう。おかしな考えやイデオロギーを振りかざして欲しくないなぁ。
かの「君主論」を著したマキャベリも自国が近隣諸国から軍事的な脅威を受けていたのならば他の国の軍事的支援を受ける事や同盟を結ぶ事について一切否定していないのである。クラウゼヴィッツの「戦争論」は読んだ事はないがたぶん同様であろう。もちろん全ての事にはメリット・デメリットがあるがメリットの方が勝っているのならそれを採択するのは為政者の務めである。そしてそれを選んだのは国民なのだ。それが主権国家のする事でないとは誰も考えないだろうし、その事によって日本が自立していないなどと世界のどの国も思わないであろう。軍事力を補う為にも、はたまた軍事力を行使しない様にする為にも、外交手段を駆使するのは当たり前だし、危機を回避するには権謀術数を使うのだって世界の常識である。日本もそれをやればいいのである。
もう一度歴史のお勉強をいたしましょう。1932年10月(昭和7年)国際連盟が満州に派遣したリットン調査団の報告書に基づきジュネーブにおいて満州事変と日本の満州における権益についての採択が行われた。日本が国際連盟を脱退して軍国主義の暴走がより鮮明になった歴史上有名なあのジュネーブ会議である。
会議に出席した松岡洋右全権は、その採択内容を不服として朗々と流ちょうな英語で日本政府の声明文を読み上げ、最後に日本語で「さいなら」と叫んで決然と席を立ち颯爽と議場を去っていった。そしてその後すぐに日本は国際連盟脱退を表明した。・・・だがその後の日本はどうなったであろうか。あのとき日本国民の大多数は松岡にやんやの喝采を送ったのである。そしてこれこそが独立国家としての日本の真の外交だと褒めそやしたのである。それがとても愚かな行為であったと知ったのはそれから十三年経った昭和二十年の敗戦によってであった。日本人が全体主義の悪夢から目を覚ますまで実に十三年もの年月を必要としたのだ。そしてその決断による国民並びに近隣諸国の犠牲と苦難には計り知れないものがあった。
もし歴史に学べというのならこの事から学ばずしてどうしろというのだろう。松岡のスタンドプレーはもちろん松岡ひとりの意志でした事ではない。満州国樹立という世論の高まりとそれを背景とした国家の意向が働いてあの様なパフォーマンスに及んだのは明白であろう。しかしその事によって日本が国際社会から孤立してしまったのは歴史的に云っても間違いのない事実である。日独伊三国同盟があるじゃなか。孤立なんかしていないという人がいるとしたら、それは当時世界の爪弾きものだった者同士が寄り集まっただけだろうとわたしは云うだろう。
日本が核兵器を開発してそれを配備するとはまさに国際社会から孤立する事に他ならないのである。それが分からないのなら馬の耳に念仏というものであろう。核兵器を持つ事は日本の国益にはけしてならない。そして、国際社会が認めがたい行為をした国家が世界から尊敬される道理は全くない。
三番目の発言である「過去の米ソ冷戦時代においても印パ紛争においても紛争国がお互いに核を保有する事によって現実に平和がもたらされている。被爆国という事に囚われずに日本はこの事実を直視すべきだ。」について反論と自説を述べよう。
実は、インド人とパキスタン人の方々からも同様の内容でこの設問より前にこれを肯定する発言があったのだが、それが永遠に続くかの如く発言されると「そうじゃないだろう!」と云わざるを得ない。何故なら、たかだかインドの核実験強行を受けてパキスタンが初めての核実験を行ってから2年11年しかまだ経っていないのである。('09.08.21修正:確認資料の年号見誤りで大惚けをかましました。インド・パキスタンの地下核実験は1998年の誤りです。誤記を謝罪するとともに訂正いたします)それ以来たった2年間11年間二国間に大きな紛争がなかった事を挙げてそれによって平和がもたらされているなどとどうして断じられるのか大いに疑問である。核兵器が使えなければ何れ通常兵器で争いは再開されるのは必定である。歴史的にもそれは明らかだ。そしてそれが国家の存亡という危機感にまで高められて行ったとしたら最後は間違いなく核兵器を使うだろう。('09.08.21追記:オランダのハーグにある国際司法裁判所は1996年の核兵器についての勧告的意見裁定で「国家的存亡の危機にある時の自衛の為の核による威嚇及び核兵器の使用は合法か違法か結論できない」と裁定した。(裁判官反対賛成同数となり最後は裁判長が賛成に回りこの議案の違法裁定を退けている)これが印・パの核兵器使用の際の口実になるのは間違いないだろう。しかしわたしは思うのだが<国家存亡の危機>にあったとの「判定」を誰が下すのかについては議論が尽くされて居らず人類にとって大きな禍根を残す事になったと云わざるを得ない)
日本の発言者の中にはインドやパキスタンを「大変失礼な云い方かもしれないが・・・」という前置きこそしたものの、この二国を小国呼ばわりしてこれら二国が持っているのに大国の日本が核兵器を作らない道理はないとの論法をした者がいたが、これが奢りでなくていったい何だというのだろう。これこそが日本を過去に破滅寸前まで陥れた危険な思想といわずして何と云えばよいのか。軍国主義は覇権主義でありそれは日本の歩む道ではないのだ。この発言者は私の云いたい事はそうじゃないというかも知れないが、わたしは「それこそが軍国主義だ」と云わざるを得ない。そして世界は、特に近隣諸国や東南アジア諸国は間違いなくそう受け取るに違いない。日本が過去に為した過ちを無視しては国際社会で一歩も先に進む事が出来ないのが現実なのだ。過去からそれを学ばずしてどうするのだろうか。それからこの「日本は大国」発言者にひと言云って置きたい。「日本はアメリカやロシアや中国から見れば極東の小さな島国つまり紛れもなく小国だという事を知るべきである」
日本は現在こそ国民総生産(GDP)は世界2位だがもう間もなく中国に抜かれる。そして30年後には恐らく20数位あたりまで国力が低下するとの分析もある。思い上がった国家が衰退や滅亡の一途を辿るのは世界の歴史を見ても明らかだろう。そして、わたしは日本の絶頂期はとうに過ぎていると考えている。もし日本が世界の表舞台に再び躍り出るとしたら、それを握る鍵は日本にかつての繁栄をもたらした「繊維産業」や「重工業」や「電化製品」、「自動車産業」などにあるのではなくて、
「環境・平和」というロジックを前面に掲げた日本の国是と産業構造
の再構築にある様な気がしてならない。
小国という言葉が出たついでに云いたいのだが小国こそ核兵器を持ってはならないというのがわたしの考え方だ。何故なら大国ならば国力があるので核兵器を使用する確率は国力の強大さに反比例して低くなるが、小国には国力がないからすぐに国家存亡の危機に瀕し、そうなったら国体の維持という名の下に核兵器が使われる危険性は極めて高いといえるからだ。
北朝鮮とはまさにその恐れの極めて高い危険国家なのだ。その国に対抗して日本が核兵器を作ったらどうなるかは火を見るまでもなく明らかであろう。平和どころか更に緊張状態は極限まで高められるだろう。
日本がその様な状況で核兵器を持ったとしたら日本とて先制攻撃をしないなどと誰が断言できるのか。日本独自のスパイ衛星は北朝鮮をすでに監視しているのだ。危ないとなったら日本が被害を受ける前に相手をやっつけろと云う世論が高まらないと誰が云えるのか。過去の例を見ても日本人が常に正しい選択をするとは限らないのだ。そして北朝鮮よりも先に日本が核兵器を使用したら日本は紛れもなく世界から爪弾きにされるであろう。
ここで、核兵器を使うとはどういう事なのか整理して考えてみよう。
いま世界のどこかの紛争地帯で核兵器がもし使用されたとしたら核戦争はその地域に止まる事はまずあり得ない。ほぼ間違いなく地域が拡大し、やがて地球規模の全面核戦争に突入する恐れがないとは絶対に云い切れないのだ。 これは国家間の紛争でも、テロによる核攻撃でも同じ結果を招く事に変わりはない。もしそうなった場合を考えてみると良い。
想像してみて欲しい。核兵器の使用によって地球規模で核に汚染された場合、はたしてどの国家が戦争の勝者でどの国家が敗者だといえるのだろうか。コスモシチズン(地球上の全ての市民)対テロリストの構図によってもたらされた「正義」が行われた結果は果たして如何ばかりであろうか?その事によって人類ばかりでなく全ての動物は微生物や菌類でもない限り生き長らえる事は到底不可能だ。いくら高性能な核シェルターなど作ってその中に避難したとしても余命がほんの少しだけ先に延びるだけで単なる気休めに過ぎないのだ。核兵器を持つとは本来そういう事を意味する。相手が核を持ったから自分も核を持ちたいなどと考えるのは究極の愚か者の考えである。
以上の事からわたしが出した結論は、
「核兵器は持たない」
「(核の連鎖を免れる為にも)アメリカの核の傘の下には入らない」
「核攻撃を無力化する手段を構築する」
の新・非核三原則の提唱とその履行である。
最後となりましたが、③と答えた人にこれだけは云って置きたい事がある。日本が被爆国であるという事をあなた方はあまりにも軽視している。「被爆国という事に囚われて感情的になっているんじゃないか。感情論じゃ日本を守れないんだよ。もっと現実的な話をしろ!」と①と答えた被爆者の女性を揶揄した者も含めて③と答えた方全員は一度実際に広島平和記念資料館や長崎原爆資料館に行ってみては如何だろうか。もし広島に行って見たのなら広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に刻まれた『安らかにお眠り下さい 過ちは 繰返しませぬから』の碑文をよく噛みしめて下さい。供えられた一日として絶えた事のない花束と平和の灯火や原爆の子の像を前にして、そして原爆投下の目標とされた相生橋が架かってる元安川の川向こうに見える世界遺産「原爆ドーム」を目の当たりにして、そんな事が果たして云えるのかどうか自問して下さい。
わたしが初めて広島平和記念資料館を見たのは高校の修学旅行に於いてであった。その時の衝撃は今でも忘れない。わたしは男子クラスであったがクラスメートの過半は昼食も喉に入らない程のショックを受けたのだ。それは原爆の写真などの資料が惨たらしかったからばかりではない。一瞬にして全人類の生命を奪う兵器がこの世に存在する事への限りない恐怖であった様に思う。
資料館に行って展示資料を見ても、平和記念公園のあの佇まいを眺めても、まだ核兵器の保有を主張する様な人がいるのであれば、これは極論だが敢えて云わせて貰いたい。「あなた日本人やめて下さいな。そして海外でも何処にでも行って下さい。だけど行った先で絶対に”私は日本人です”なんて云わないでね。日本人の恥だから」と云って置こう。
それからもう一つ。あなた方に勇気があるのなら広島や長崎に行ったら是非大勢の被爆者や市民の前で「日本は核兵器を持つべきである」とこの討論会の様に主張してみて下さい。間違いなく広島や長崎の人達の怒りや怨嗟を買うだけでなく、生きて地元に帰れる保証は何処にもありません!それ程までに日本人として恥ずべき無神経な発言をあなた方はしたのです。
そこまで云ってもこの意味が理解できないのであれば、わたしの「あなた日本人やめて下さいな」発言はけして極論ではなく正当性を持つであろう。
注)この番組にはアメリカと中国と韓国そしてインドとパキスタン国籍の方が出席していたと記憶していますが、①を選択したのは中国と韓国、②はアメリカ、③はインドとパキスタンという結果はまさにその国情と日本をどう見ているかを表していて興味深かった。
<次回へつづく>
この記事は一日おきに三回連続で記事更新中です。
次回最終回の記事更新は8月22日(土)00:00AMとなります。
※ この記事を書くには多くの時間を要し本当にくたびれました。
読む方も大変だろうけれど書く方はその何倍もの労力と体力と知力を必要とします。
根気が無くその三つの全てに欠けているわたしには纏めるのは大変だったよ(=^_^=)
こんな堅く重苦しい記事を大勢の方が見て真剣にコメントを下さる事に感謝しています。
たまにはこうして日本の将来について皆で考えてみるのも良い事かなと思って書きました。
この記事によってその機会を作れたのだとしたら望外の喜びであります。
一回分記事が残っていますが最後まで読まれてこそ日本の進むべき道が分かろうというもの。
是非ともお見逃しなく!