それは2011年のことだ。
僕たちはイングランドのレイク・ディストリクト、つまり湖水地方のニア・ソーリー村に行った。妻と友人の英国人夫妻と四人でピーターラビットで有名なビアトリクス・ポターの晩年住んでいたというヒルトップ農場に行ったのだ。
そこで入場の順番を待つ間、僕たちは近くの『タワー・バンク・アームス』というパブで遅い昼食を摂ることにした。
その村はのどかな湖水地方そのものだった。村にあるショップや宿やパブは本当にイングランドのどこにでもある農村風景だったが、それ以上に僕には特別な思いがあった。
僕はそこでヒルトップ農場以上に気になるものを経験しようと目論んでいたのだ。それはその村に唯一あるパブで典型的な『ローストビーフ』を食べたいという思いであった。
実は僕の旅の記憶は、綺麗な風景とか印象深い出来事と常に結びついていて、食べ物と結びつくことは殆どない。それとは逆に妻の記憶は、常に食べ物と結びついていて、どこそこのあれが美味しかったとか、期待外れだったとか景色などそっちのけである(笑)
だがその日の僕と妻はいつものスタンスがまったく逆転していた。僕は今回の旅行が始まる遙か前から、この村に着いたらこのパブによって、典型的な「ローストビーフ」を食べたいと思っていたのだ。そして子どものように(とはいっても常日頃妻には元々大きな子ども扱いされている僕ではあったが)妻だけでなく妻の長年の友人である英国人夫妻にも朝からローストビーフ、ローストビーフとアピールし続けていたのだった。
屋外のテーブルで注文したローストビーフが来るまで、僕たちは訪れた野鳥や飾られた草花を愛で眺めたり、隣の席に陣取った英国人ファミリーに話し掛けたり、その連れて来た愛犬であるジャーマンシェパードの相手などをしていた。
そこに運ばれて来た『ローストビーフ』は思った以上に大きく量も多いものだった。しかし、評判に違わず本当に美味しいものだった。
大きな皿にローストビーフが二切れ、その隣にボイルした上で軽く焼き目を付けたまるごとのポテトとニンジンとタマネギの炒め物、そしてブロッコリーなど添えられていた。しかしその大きなお皿の真ん中に鎮座在していたのはメインディッシュのローストビーフではなくヨークシャー・プディングだった。その中央は言わずもがなくりぬかれた形を成していたが運んできた店のオーナーはその窪みにたっぷりのグレイビー(ソースの一種)を注ぎ込んだ。
行儀悪くも思わず「ジュルッ」っと舌が鳴ってしまうようなシチュエーションだが僕は皆の用意が調うまでじっと我慢してそれを眺めた。その他に瓶に盛られた細かくしたポテトとマヨネーズを和えた名前は分からないソースとピクルスと、たっぷりのマスタードなどもテーブルの上に所狭しと並べられた。
旨かった、実に旨かった。
僕はそれ以来これほど美味しい『ローストビーフ』を食べたことはない。
また湖水地方に行ってみたいと思った。
<追記>
この三年後の2014年に僕たち夫婦は再び湖水地方を訪れる機会を得た。だが、このニアソーリー村に立ち寄ることはなく北の湖水地方第二の街ケズウィックを訪れただけだ。
しかし、独立の可否を問う住民投票があったスコットランドを訪れたり、日本人の余り行かない当時のスコットランドの北西部の諸島を自分で車を運転して旅行したりと十分満喫できた英国旅行だった。
因みに掲載した写真の殆どは使い古しです。いっぱい撮っても結局気に入った写真は限られるということなのかも知れません。