このまま中二日、つまり三日に一度記事を更新したとしても五月末くらいまでは記事のストックがあるのでそれをすべて「予約投稿」すれば当分楽が出来るかも。 その間目一杯仕事探ししなくっちゃ!
『上は天を怨みず、下は人を咎めず』(中庸・第十四章)
中国古典にある様に生きるのは甚だ難しい。
しかし、今は休息の時。ならば従容として心穏やかに己の心の赴く処に従うのみ。
『人生劇場』 (作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男)
♪ やると思えば どこまでやるさ
それが男の 魂じゃないか
義理がすたれば この世は闇だ
なまじ止めるな 夜の雨 ♪
♪ あんな女に 未練はないが
なぜか涙が 流れてならぬ
男ごころは 男でなけりゃ
わかるものかと あきらめた ♪
♪ 時世時節は 変わろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界 ♪
そもそも「人生劇場」とは作家尾崎士郎が書いた自伝的長編小説の題名だ。後輩の五木寛之がこれを手本として「青春の門」を書いたのはあまりにも有名である。
一方これを題材とした歌謡曲の「人生劇場」は戦前(昭和13年(1938年))に、楠木繁夫という歌手が歌っていたものを戦後の昭和34年に村田英雄によって再度歌われたもの。村田英雄がこの歌を歌う事になったのはもちろんこの曲を作曲した古賀政男がこの若手浪曲師の才能を見出したからだ。「無法松の一生」がデビュー曲だがその頃の村田英雄は「人生劇場」がリバイバルヒットはしたものの殆ど売れなかった。その後「王将」が戦後初のミリオンセラーとなりそれまで鳴かず飛ばずだった村田は一躍人気歌手としての地位を獲得した。
だから戦後生まれのわたしにとって「人生劇場」と謂えば村田英雄なのである。しかし、幼い頃に聞いた浪曲歌謡も、伴奏から少し遅れて歌う村田のその独特なこぶしの効いた歌い方も男臭いと謂おうか、泥臭いと謂おうか、わたしはけして好きではなかった。
しかし齢を重ねてあらためてこの曲を聴いてみるとなぜか心に滲みるのである。
久々の「ウドの大木 U3の人生劇場」はU3の格言と人生訓やアドバイスを集めてみました。
困難に直面した時に一度でも逃げ出した者の前途にはその後も困難がついて廻る。
困難や苦労を厭わぬ者はいつしかそれを乗り越える力を身につけやがて大事を為す。
人の一生は儚(はかな)く短い。ならば自分の思う様に生きるべし。
好きでもない事を自分自身に強いるのは人生の浪費以外の何ものでもない。
そうであるならば後悔などしない様にやりたい事を即座に実行するべきである。
自分の人生なのだから自分らしく生きるべし。
本当に重要な事は他人に相談してはいけない。
人は易きに流れる。それは自分も、そして相手もという事だ。
だから相談相手は当たり障りのないアドバイスしか言わない。
それが他人の人生を左右する事になるかも知れないとしたら尚更である。
閉塞した状況であれば時に大胆な決断が道を切り開く事もある。
しかし無難な答えでは道は閉ざされたままだ。自分の殻を破れない者に成長はない。
だからこそ結論とその結果の行動は自らが能動的に行わなければならないのだ。
他人への下手な依頼心は己の成長を止めやがて身の破滅を招く事もある。
ここ一番という時に人間は弱いものである。
その様な場面では大抵の者は無心になろうと思う様だが
思えば尚更のこと普段の半分の力も発揮出来ないものだ。
そういう時は逆に集中力をとことん研ぎ澄ませて
事が終わるまで程良い緊張感を持続させる様に努める事だ。
そしていざという時に過度の緊張で慌てたり失敗しない様に
普段から事ある毎にその様な場面を想定して心の鍛錬(修練)を怠らない事である。
仕事を持つという事はその絶好の修練の場が目の前にあると云う事だ。
今現在を大切に生きたいものだ。
後から出来ると思うと大概後では出来ない事の方が多いからだ。
今出来る事はいま片付けてしまうに越した事はない。
そうはいっても先延ばしにしたがるのが人の常ではあるが(笑)
知ったか振りは墓穴を掘る。
自慢高慢は馬鹿の内である。
思慮分別も示し方を間違えれば人望を失い災いとなる。
中身のない上っ面だけの人間になってはいけない。
人を見た目で判断してはならない。
見た目は大方虚飾であり仮面なのだからその者の本質を表してはいない。
いざという時でなければ人の本質はけして顕れないしその機会は滅多に訪れない。
人の本質を見極めたいと思ったら大勢の前で恥を掻かせればいい。
しかしその事によって深い恨みを買う事はこころして置く事だ。
それを避けたいならば人を見極める洞察力を養うしかないだろう。
『愚者は成事に闇く、智者は未萌に見る』 (出典:戦国策)
洞察力があるかないかでは雲泥の差があると謂う事だ。
目の前に危機があっても気がつかない者になってはいけない。
僅かな兆しでも危険を察知する智者の洞察力を持ちたいものだ。
何かを始める場合には最初から完璧を期してはいけない。
まだ準備が整っていないとか、時期尚早などと言っていると
そのうち機会そのものを逸してしまう事になる。
思い立ったが吉日。四の五の言わずに即座に行動に移すべきである。
例え求められたとしても人には安易に意見はしない方が良い。
大概、意見とは意見をする者の独り善がりに成り勝ちだからである。
真の意見とは相手の為だけを思ってするものだが
人はそうたやすくその様な心境にはなれないものだし
自分の培ってきた観念や経験から離れる事は出来ない。
第一に自分の事すらまともに出来ない者が他人に意見など云える筈もない。
自分から進んで人に「意見」をする者の本当の動機は自分の為であり相手の為ではない。
しかしながら殆どの者はそれが自分本位から出たものだと自分でも気づかないか隠している。
ましてや「忠告」とは相手の為を思って言っているのではない。
己の考えを相手に押しつける行為だ。だから相手は聞く耳を持たない。
人の本音や本性は自分が困窮したり逆境の時になって分かるもの。
順風満帆の時には人は声を掛けなくとも寄って来るが
何か事が起こりその人が逆境に陥ったり不遇の身となれば
途端に蜘蛛の子を散らす様に居なくなるのが世間の常である。
しかしながら逆境や不遇は自分の廻りにいる者を見るには良い機会である。
上面だけの不実な者と、誠実で真のある人間とがここで峻別されるのだ。
離れていく者などどうでもよい。
大切なのはその時に自分を助けて呉れた人こそ恩人であり一生涯の宝だという事だ。
その人が自分にしてくれた様に自分もその人に何かあれば
何を置いても救いの手を差し伸べなければならない。
そしてお互いに一生涯変わらぬ態度で接しなければならない。
何故なら恩義とは一生涯忘れないものであり死ぬまで変わらないものだからだ。
恩義を受けたにも関わらず世間体や廻りの者を見て
他人への態度や接し方を変える様な者は
如何にそれを正当化しようとも不実である事に変わりはない。
その様な人間はいずれ誰からも相手にされなくなる。
このような者を「卑怯者」、「変節漢」と呼ぶ。そう呼ばれない様に己の言動を律すべし。
<上杉博物館で見掛けた「かねたん」仕草が可愛かったです>
<米沢牛のステーキ丼 メチャ旨でした>
<「上杉花御膳」だったかな。名前忘れちゃった。うちの奥様注文の品>
<横から見たところ>
<ステーキ丼を真上から撮影>
<「かねたん」に触れても陛下の様にペロッと舐めてはくれないよ>
<上杉神社の池の蓮>
※一連の写真は2009年8月29日に米沢市を訪れた時に撮影したものです。
それにしても米沢牛はおいしかった。
なお、記事の内容と掲載した写真とは何ら関係がありません。
写真に載っている人達もわたしとは何ら関係のない観光客です。