<この花<エゴノキ>の咲く頃に今の仕事が始まったのだが・・・>
九月末でやっとひとつの仕事が終わった。しかし仕事を終えた充実感も安堵感も今の私にはない。
<この花<エゴノキ>の咲く頃に今の仕事が始まったのだが・・・>
九月末でやっとひとつの仕事が終わった。しかし仕事を終えた充実感も安堵感も今の私にはない。
火が付いて手の施し様のない状態にある仕事を何とか鎮火させて欲しいと云われ始まった今回の仕事であった。何度も断ったのだが再三再四の要請にとうとう重い腰を上げざるを得なくなった。このところずっとその様な仕事はなかったのだが、わたしは働き盛りの頃はクレームが発生すると必ずお声が掛かり確実に鎮火させる事の出来るファイヤーマンでもあったのだ。しかし、むかし取った杵柄で何とかこなせるだろうと甘く見たのが間違いだった。わたしには最早当時の心身の頑健さは無く、若い人と張り合える程の活力も気力もとうに失せていたのだった。
5月の連休も休まずに始まった今回の仕事は当初の計画では5月6月の短期決戦の筈であった。しかし予定は未定にして確定にあらず。先任者だった者等はわたしが入って来たのを待っていましたとばかりにことごとく脱落していき、後から入って来た者は長続きせず最後まで残ったのは結局わたし一人であった。さもありなん。
挨拶をしても挨拶をまともに返される事もなく冷たい雰囲気が漂う職場。ボールペンやノートやファイルなどの必需品であり且つ消耗品である物すら与えられず自前で買い揃えるほか無かった。責任が誰にあるのか明確でなく、何かあればそれは常に一番下の立場であったわたし達に覆い被せられた。加えて(これが一番酷かった)朝から怒号が飛び交う職場。はっきり云って仕事が出来る環境ではなかった。つまりまともな職場ではなかったのだ。かつてわたしは様々な経験をして来たけれど、これ程劣悪な環境と険悪な対人関係を経験した事はなかった。そんな最悪の環境の中で仕事を最後までやり終えたわたしは一人貧乏くじを引いた恰好だ。わたしが応援に入って来たのをこれ幸いと主だった者が次々と離脱し、その補充の為にわたしより後に入って来た者もそれぞれ理由は異なってはいたが離任していった。一人残ったわたしのストレスは強烈なものだった。当初の予定通り2ヶ月の短期決戦であればそれでも何も問題は無かったが、単身赴任でそれ以上の期間仕事をするには体力的に無理があった。
異変は着任後一ヶ月もしないうちに現れた。糖尿病の数値が前回の検診より1.7ポイントも一気に悪くなっていたのだ。強いストレスと不規則な食事時間とバランスの取れていない食事、加えて朝早くから夜遅くまでの長時間労働は確実に体にダメージを与えていた。そして英国に出発する週に受けた検診では数値はさらに悪化し糖尿病の典型的な症状が現れていた。腰椎間板ヘルニアの再発もこの仕事が長引かなければあり得なかっただろう。体はボロボロだったが精神力だけで何とか持ち堪えて来た。今更それをどうのこうの云う積もりはない。以上で述べた環境や他人の所為にする積もりもない。すべての言動や判断は最終的に自己に帰結するのだ。しかし、かつて特定の人々を毛嫌いした事はなかったわたしだが、「こんな奴らと明日から顔を合わせなくて済む」と思うと清々した事だけは述べて置きたい。
最後までよく我慢したと自分で自分を誉めてやりたい。
<ストラットフォード・アポン・エイボンにあるシェークスピアの妻の生家、アン・ハサウェイのコテージでは白い紫陽花が咲いていた。英国の夏は一度に様々な花が開花する。日本では冬や春の花と思われているものでも同時に咲いている。日本人の感覚からするとこれは驚きだが考えてみれば英国はカムチャッカ半島と同じ緯度にあるのだ。短い夏にありとあらゆる樹木や草花が一斉に咲き誇るのは当たり前なのかも知れない>
英国の夏に日本では冬の花として知られるシクラメンが咲いていた。考えてみれば原産国は確かイスラエルあたりで自生地では6月頃に咲くと聞いているので別に驚くには当たらないのかも知れない。花は与えられた環境の中で自分の咲く時期をよく知っているのだ。人間もそうなのかも知れないとふと思った。ただ人間は大半がその時期を自覚する事はなく過ぎてから初めてそれに気がつくのだった。
人は一人では生きていけない。
若い頃は孤独を好む傾向が強く一人でも生きていけると粋がっていたけれど、年を重ねてそうではない事を知った。 だから「人間」と云う言葉があるのだと思い至った。大多数の人々が自分一人では生きていけない事を知っているが、世の中にはわたしに輪を掛けてひねくれ者がいるもので、他人何する者ぞ、唯我独尊的な考えの持ち主は意外と多い様だ。そんな人間が仕事上で自分より上の立場にいたとしたら実に最悪である。毎日がパワハラの嵐で下にいる者は次第に心が萎えてしまう事だろう。
パワハラとは相手より強い立場の人間が弱い立場の人間を、上である自分の立場を利用して下の立場の者に様々な圧力を掛ける事を言うが「人は一人では生きていけない」事を自覚できていない人間はこのパワハラ傾向が顕著である気がしてならない。
怒鳴る。なだめすかす。恫喝する。大声を出したと思ったら急に猫なで声になる。そんな人間を目の当たりにすると、どんな環境の元に生まれ育って来たのかおおよそ察しがついてしまう。かわいそうな人間だとは思わない。自分を変えるのは自分しかない。変えなければいつか破滅が来るのみである。自業自得とはまさにこの事だろう。
しかしその下にいる者にとって災難の一言で片付けられては済まされない現実がある。あたら働き盛りの時にもしこの様な人物と遭遇したとしたら不運であり不幸である。いまの企業にこんなパワハラ人間に注意する者が例えその上司であっても一人もいない現実にわたしは唖然としたものだ。もはやその上司からしてがまともでないのである。世間で名の通った大企業ですらそうなのだ。やれコンプライアンスの確立だの、セクハラだパワハラだと騒ぎ立てその撲滅キャンペーンだのお題目を並べるのは結構だが、それはわたしから云わせればただの絵に描いた餅だ。絵空事だ。現実は酷いの一言に尽きる。
前置きがかなり長くなってしまったが、それでは英国旅行三日目から再開する事としよう。
湖水地方の山々とその間に佇む湖は僕らを夢の中にいざなう。
日本人は最先端を尊び古いものを軽視し勝ちであった様に思う。古い家屋は壊されコンクリート製の建物や新建材に覆われた木造住宅に取って代わる。地震などの天災が多い国である事や、古い建物が存続し得ない法制度と新しもの好きな国民性がそれを助長している。昭和そして平成と、民家の大半はこの様にして建て替えられてきたのだ。そしてそれで満足している。日本でも民家以外では確かに古い寺社建築や遺跡等を大切にしている事実はある。しかし大多数の人々にとってそれはたまに行って愛でる観光名所でしかない。そこに住んで日々の営みをしている者以外にとっては、そこは過去の遺物であり生活に密接にかかわっている建物だとは思っていない。日本人はどうも自分達が住む住宅と古寺院等とは切り離して考えているフシがある。自分達が住む建物は歴史的建造物は別物だと思っているのだ
<バウネス・オン・ウィンダミア(Bowness-on-Windermere)のホテルとゲストハウス>
英国では明らかにそこが違う。今住んでいる建物を壊さないで出来るだけ古いものを残そうという傾向が強い。例えば外壁は同時代の同材で修復し、内装も出来るだけ雰囲気を壊さないものに変えるか従前のものが入手できればそれをそのまま新しい物に更新するという具合である。英国人は最先端もさることながら伝統をそれ以上に重んじるのだ。英国では最先端や超モダンなるものは古いものとの融合なしには成立しない。それそのものが英国人の思想でありこの国の伝統を支えていると考えられる。日本の現状と英国のこの伝統を見るにつけ、人間の幸福度を基準に考えたらどちらが良いのかは明らかだ。
人によって違うだろうが捨て去られるものに一抹の寂しさや郷愁をを感じるのは僕だけだろうか。ソーラーハウスや環境に優しいという住宅は確かに良いだろう。最先端の装備を身に纏った自動車は日本ではステータスであり魅力的だ。いま流行(はやり)のエコでもある。でもだからどうだというのだろう。英国では分不相応なものを持っている者は軽蔑の対象でしかない。若い者がブランド品を持っていたら笑われるのが落ちだ。金を持っている事を誇示する様な生活は忌み嫌われる。伝統が一番大切なステータスなのである。日本の成金やニューエグゼクティブとは明らかに違うのだ。
だからかどうかは知らないが、きれいに磨き込まれたピカピカの車など英国ではあまり見掛けなかった。便利さには程多い車が高速道路を音を立てて走っていたりする。それでも英国は先進国の一員である。心豊かであるともいえる。日本の様に矢鱈とモノが溢れた社会が良いとはいえない。日本にはこれだけものが溢れているというのに何と心が満たされない人々が多い事か。先進国で毎年三万人を超える自殺者が出る国など日本以外にない。何度も訴えている事だが、
物が豊かになるのと反比例する様に日本人の心は貧しくなった。
今の日本が抱える病巣は根深い。
英国滞在三日目、プレストン<Preston>の朝は爽やかな晴天で始まった。kateの家に泊まった翌朝カーテンを開けてみるとそこには英国の朝らしくない眩いばかりの光が溢れていた。
今日の目的地は湖水地方<Lake District>である。僕が是非訪れてみたいと希望した地方なので 晴れ男の面目躍如晴天となった次第である。朝食は自由にして良いと云われイングリッシュ・ブレックファストを自らキッチンに入って冷蔵庫を開け、食材を手にとって作り、リビング兼ダイニング・ルームで食べた経験は新鮮だった。美味しかったのは云うまでもない。
今日はまずせっかく国際免許を取ったのだからヨーロッパカー(EC最大のレンタカー会社)の営業所で契約の変更をしなければならない。その前にホームセンターで日本の電化製品を英国で使える様にする為の変圧器を探したがやはりここにもなかった。この時点で入手を諦める事にした。そしてヨーロッパカーの営業所で契約を済ませいざ湖水地方に出発となった。kateの運転する車には父親であるDavidが同乗し、僕の運転する車は妻とCrisが乗る事になった。ナビゲーターはCrisである。助手席にはCrisが座り道案内をし、彼女の話が理解できない時は後部座席の妻に通訳を頼むといった具合である。ディーゼル車でしかもマニュアルミッション7速という車の運転は初めてだが僕が免許を取った頃は教習車はすべてマニュアルミッションだったし、今の様にオートマ限定免許などなかったのでその事はさして苦にはならない。とはいえ急な坂道で半クラッチのタイミングが飲み込めず通算で三度エンストした事は隠さず報告しておこう(笑)
妻はDavidとCrisと僕の運転を比較して一番安心して乗れたのは僕の運転だったという。それは日頃乗り慣れているからと云う訳では無く、運転自体がまるっきり違うのだという。僕は急加速急発進はしない。止まる時もいつ止まったのか分からない程静かに止まる。だからといってノロノロ運転なのではない。速度は廻りの車に合わせけして無理はしない。若い頃はそうではなかったのだが不惑の年を越えてからこの方その様な運転にいつの間にかなってしまったというのが実情である。元々は血気盛んで不正が嫌いな僕だから、無茶な運転で割り込まれたりすると逆に抜き返してその車の前に割って入って相手の車を路肩に停車させたりした。若い頃はそんな荒い運転だった事もあるのだが、ある日久方振りに荒い運転をして妻が乗り物酔いになった事が契機で無茶な運転は慎む様になった。結婚により良き伴侶を得て初めて人を労る心を持つ事が出来る様になった。以来、妻のお陰で僕はずっと無事故無違反である。
自動車専用道であるM6を北上し、降りてからは古い交通の要衝の街Kendalの脇を通って湖水地方の玄関口ともいえるウィンダミア湖にようやく着いた。
まずは今日と明日連泊するゲストハウス(B&Bの様な民間の宿泊施設。日本の民宿の様なものである)に荷物を預け、歩いてウィンダミア湖に向かう事にした。
<道すがらの風景>
<ここで昼食をとることにした>
Google Earthのストリートビューで見たら1年前は別の名前の店だった(笑)少しペンキを塗り替えただけでたぶん経営者は同じだろう。もちろん大半の観光客はその事を知らない。しかしエスニックなこの店のサンドイッチやビーンズスープはとてもおいしかった。
観光遊覧船の発着所と通りを挟んだホテルの庭には沢山の人達が日光浴をしていた。英国の短い夏ではどこの観光地でも芝生さえあれば皆日光浴をしていた。ここは北国なのだと実感した。僕達はこれから乗る遊覧船のチケットを買い求めウィンダミア湖の北端Waterheadをまずは目指すことにした。
Waterheadでは次の船便に乗って対岸に渡る事にした。出発時間まで一時間以上ある。そこでこの見た目の美しいユースホステル(日本のユースホステルとはだいぶ趣が違います)でお茶を飲むことにした。
古いユースホステルであった。以前からユースホステルであったのか、創業が何年であるのかは分からないが、少なくとも18世紀半ば以前からここにこの建物が存在していた事は間違い無い。それをこのプレートは証明していた。
ON THIS SPOT IN 1765 NOTHING HAPPENED.<1765年以来この場所では何も起こっていない>つまり「1765年以来この場所で火災は起きていない」とこのプレートには書かれてあるのだ。日本でもおなじみの非常口を表すピクトサイン(Fire exit)の真下にこのプレートがあるのを見れそれは一目瞭然である。
今回は湖水地方訪問一日目の前半で終わりにしたいと思う。次回は一日目の後半である湖畔ハイキングの模様をお送りしたい。それは僕にとっては湖水地方のハイライトといって良いとても思い出に残る半日だった。
<つづく>
南極観測船「しらせ」の新旧観測船が千葉県の船橋港で内部公開されている。船橋はまさに地元でかつ滅多にないイベントだ。「いざ見に行かん」と思ったが予約制だという。TVで報道された頃にはもう予約で満杯だろう。この埠頭は一般車は乗り入れられないから近くから見る事も叶わない。至極残念である。