”君に逢いに来たよ!”
だけど残念な事に警戒厳重で君に近づけなかった。
GUNDAM 30th ANNIVERSARY EVENT開催の前日だったからね。遠くから眺めているより他なかった。
朝9時に家を出てガソリンスタンドでハイオクを満タンにしてわたしは君に一目逢おうとお台場は潮風公園に向かった。到着までの予想所要時間は30分だ。鈍色の空の切れ間から時折弱い日差しが地上に降り注ぐ。潮風は強い。それでいてねっとりと湿った空気が肌にまとわりつく、そんな一日の始まりだった。
CROWN HYBRIDは予定を3分ほど過ぎて潮風公園北駐車場に到着した。そして君に逢おうと車のドアを開けた。しかし降りた瞬間に違和感を感じた。そしてその違和感の正体がほんの数分後に現実となって前に立ち現れ、わたしの直感はものの見事に的中してしまった。
君の勇姿を間近で見たいと思ったけれど君の立つ太陽の広場は廻りをすべてバリケードで囲まれてしまって警戒厳重で足下に近づく事さえ叶わなかったのだ。ただ遠巻きに眺めているしかなかった。
仕方なく松林の枝をかき分けて撮ったのが冒頭の君の勇姿だ。
正直に云ってわたしはガンダム世代ではない。団塊の世代とそれに続くポスト団塊の世代よりも更に遅く生まれ、後に続くガンダム世代にも挟まれたいわば名も無き「空白の世代」である。日米安保闘争から始まった学生運動などの無秩序と混乱そして破壊行為。暴力的雰囲気の中での無責任で得体の知れない熱気とその結果としての脱力感と拭いきれない挫折感。それらを運んで来た団塊の世代が踏み荒らしていった不毛の荒野を、熱くなれず、かといって醒めても居らず、シラける迄は行かない中途半端な時代の空気をわたし達が引き継ぎそして切り開いていった。多感な青年時代、そんな空気が支配していた時代をわたし達は歩んで来たのだった。だからという訳ではないが年を重ねるにつれてこのまま中途半端なままで終わりたくはないという思いは人一倍強くなっていった様に思われる。
わたし達の世代にはヒーローは居なかった。わたし達の上には挫折感しか共有できない団塊の世代とその反動からか無気力なポスト団塊の世代しかいなかったのだ。したがってわたし達が憧れたりお手本とする人物など皆無だった。だったら自分達がなるしかない。そう思ったのがわたし達の世代なのだ。だから戦後の混乱を引きずる事もなく、高度成長時代以降に生を受けて、生きていればいろいろ苦悩や困難はあるにせよ、社会的な出来事に背を向け個人的な悩みを抱えながらも一人楽しみに没入出来た、ある意味何の屈託もなく青春時代を謳歌できたガンダム世代が少しうらやましい。
しかしながら、我々の世代までは現実の人物や歴史上の人物がヒーローであったものが、はじめてガンダム世代は架空の人物なりキャラクターに夢を託しヒーローを作り上げていった世代だったのではないか。そう思うと当初ただのアニメーションであったガンダムの具現化というのは何かエポックメイキングで象徴的な出来事の様に思えてならない。
さあこれからは君たちの時代だ!
そうは云いながらもわたしと同年代のアスリート(競技者)には若くして偉業を成し遂げた人物が多い。外国選手との対戦生涯無敗116勝、引退から逆算して203連勝、史上最強との呼び声が高い柔道の山下泰裕、前人未踏の自転車世界選手権スプリント部門10連覇の競輪の中野浩一、国際的大会で幾多の優勝経験を持つマラソンの瀬古利彦など世界的にも有名な選手を輩出した。
ミュージシャンでは桑田佳祐、大友康平、鈴木雅之、長渕剛など。作家・作詞家・漫画家では田中康夫、秋元康、泉麻人、やくみつるなど。異色といっては何だが、北村(晴男)弁護士、その他にタレントの島田紳助、渡辺正行などもいる。
俳優は結構多くて、役所広司、榎本孝明、竹中直人、宅麻伸、永島敏行、山口祐一郎、村上弘明と一部を除いて(笑)結構二枚目が多い。気づかれた方もいらっしゃると思うが目に特徴のある役者が多いと云えるだろう。
U3も二枚目だとはいわないが目に特徴があるとは殆どの方に云われる事である。いわゆる眼光鋭いというタイプかもしれない。一見強面で取っ付き難い様に見えるが一旦話せば実は優しい人だったとは女性によく云われる。だが、自分で云うのも何だが見た目通り怖い一面がある事は事実だ。特に間違った事に対しては厳格で不正な者が許せず断固として戦う。
そう、我々の世代は中途半端な事はしないのだ。
<お知らせ>
一部の文章表現が主観的で独善的で適切でないとお感じになられるやも知れませんがU3に免じて笑ってお許し願えれば幸いに存じます(=^_^=)
『ヘルニアン』vol.3
<わめき暴れる男>
全身麻酔はあっという間に効く。手術室に入ってから看護師さんに一・二・三と数を数えて下さいと云われたのも殆ど覚えていないし、意識が戻ったのは手術が終わってICU(集中治療室)に戻ってからだった。
予定より一時間遅く午後二時半にお呼びが掛かり処置室で筋弛緩剤などを打ってから手術が始まったのは妻の話では午後三時前。そして手術を終えたのは午後八時近くであった。実に五時間の長丁場であった。腰椎間板ヘルニアの切開手術といえば通常は二時間、掛かって三時間なので二倍近く要した事になり手術は手間取ったといえる。普通人体には約3リットルの血液が体の中を巡っているがわたしは手術中にその三分の一近くを失った。正確には900ccだったのだが、もし1リットルを出血によって失っていれば輸血であった。実際に手配する寸前だったという。わたしは肝炎やHIVウイルスなどの感染を恐れ輸血ははじめから拒んでいたので後で聞いてヒヤリとした。
妻はその日仕事を休んで昼前に病院に来ていた。家族の立ち会いを求められたからだが、だからといって家族は手術室には入れない。手術の様子もモニターなどで見る事は出来ない。ただ何かあった時の為だけに呼び出されるのだ。そんな訳でとにかく手術室の前のベンチシートに座っていた妻は気が気でなかったという。わたしが渡した文庫本を一冊持って来て読もうと思ったのだがどうも身が入らない。二時間経っても三時間経っても四時間経っても手術中の赤いランプは点灯したままだ。さぞかし不安であったろうと思う。当人であるわたしは麻酔でまったく意識がないのでそんな事を知る由もなかったが・・・。
執刀医は二人掛かりでその間悪戦苦闘していたのだと翌日の手術の説明で知る事になるのだがとにかく手術は無事成功した。しかし問題はその後だ。手術終了直後から麻酔からの覚醒措置が取られるのだが目覚めるのにわたしは三十分ほど掛かったらしい。とにかく手術室を出た時からずっとわたしはわめき続けストレッチャーの上で暴れていたのだという。当人はまったく自覚していないがそうなのだ。とにかくICUに入り、ストレッチャーからベッドに看護師四人掛かりで「せーの」の掛け声とともにわたしの体が敷いていたシーツごと移動された時、初めてそのあまりの痛さで目が覚めたのだ。わたしの意識と視界がぼんやりしたものから鮮明になるまでに更に数分掛かり、わたしの目に入ったものはわたしの廻りをせわしなく動く六七人の看護師さんと隅の方で不安そうな顔でわたしを見ていた妻の姿であった。わたしは瞬く間に何本もの点滴とチューブに繋がれ、計測機械とそのセンサーやらを体のあちこちに装着されてもはや雁字搦めで身動きすら出来なかった。
そして手術後妻に初めて掛けた言葉は「今、何時?」だった。
妻は腕時計をチラッと見て私に視線を移し、
「夜の八時半よ」と答えてくれた。
その意味を理解するのに少し手間取った。そしてようやくそれを理解すると「随分と長かったんだね」と声になるかならぬかというほどの小さな声でつぶやいた。わたしは頼りなげに妻に左手を差し延べた。そして妻はその手を優しく両手で包んでくれた。妻の手は柔らかでほんのりと温かく少し湿っていた。それからわたしはかすれる声でそれに応えた。
「そんなに掛かったのか・・・外は真っ暗だろうね。もう遅いし危ないからタクシーを使ってうちに帰りなさい。ありがとう」、そう妻をねぎらった。口にはまだ酸素マスクが装着されたままだったので少し話づらかった。
わたしは鎮痛剤の点滴が効いたのか妻が帰ったのを確認したその後すぐにまた眠ってしまった様だ。夢の中で自分の話した言葉と時刻を告げる妻の声だけが何度も繰り返し反響して聞こえていた。何故か君がいとおしく、そばにいない不安を抱えて間欠的な痛みともわたしは戦っていたのだった。そのあいだ斜め頭上に置かれた心電計の定期的な音がピッ、ピッ、ピッと規則正しく時を刻む様に聞こえていた・・・。
鎮痛剤が効かなくて夜中に痛みで何度か目が覚めた。落下止めのベルトで体を固定されていて寝返りさえ打てない。少し首をねじる様に上目遣いに枕元を見ると痛み止めのかなり太い注射が置いてあり、そこからチューブを通して血管に挿入された鎮痛剤が一定時間に一定量送り込まれる様になっていた。化膿止めと栄養剤が入った点滴はそれぞれ別のチューブを通って体に注入されていた。痛みを訴えると鎮痛剤を血管に送る量を調整してくれるのだが今度はそれで逆に頭痛と吐き気がひどくなり仕方なく看護師さんに通常の量に戻して貰った。「(痛みは)大丈夫か」と聞かれたが「我慢する」と答えた。
余談だが、その痛み止めとは例のボルタレンなのだがわたしはそれから半年後突然そのボルタレンでアナフィラキシーショックを起こしひどい目に遭う事になる。2009年となった今年から市販もされTVでも時々CMが流れているこの痛み止めだが、希で滅多にないとは云いながら(実際にも主治医はわたしが初めての症例だと云っていたが)命に関わるショック症状を起こす事を皆も覚えて置いた方が良いだろう。わたしは手が小刻みに震えて胸が苦しくなり汗を大量に搔いた。その時鏡で見たその顔は赤黒く鬱血していた。その後血圧が異常に低下して呼吸困難に陥り立っている事さえままならなくなった。あの時震える手で受話器を取り病院に連絡を入れた後に家を出たのだが、もしすぐタクシーが捉まらなくて病院に行く事が出来なかったら、わたしは今こうしてブログ記事など書いている事はなかっただろう。薬に絶対安全なものなど無い事を知るべきであろう。それでは本筋に戻ろう・・・。
翌日、外来診察後に妻が医師から手術の説明を受ける事になっていた様で、昼過ぎに着替えを持って病院を訪れた。着替えは看護師の指示によるものだった。本当は手術当日に説明をするのだが手術があまりにも長引いたので翌日である今日の説明となった様だ。当人であるわたしには既に医師から説明があったので妻だけがカンファレンスルームに呼ばれ説明を受けた。そしてICUに戻って来るなりわたしの顔を見てニコニコしながらのたまわった。
「あのね、手術は成功ですって。それよりもね・・・U3きのう凄かったのよ」
「何が?」
「もう手術室の前室で訳の分からない事を叫んで凄かったの。恥ずかしかった」
「訳の分からない事ってどんな事?」
「私と手術室専属の看護師さんしか多分知らないと思う」
「だからどんな事」
「教えてあげない。わたしはこの秘密をたぶん墓場まで持って行くと思う」
「おいおい、そんな大袈裟な事か」
「おんなの人の名前を叫んでいた様に聞こえたけれど・・・」
「俺にはまったく身に覚えがないぞ。カマを掛けているのか。」
「あはは、そうかも知れないわねぇ!」
二年経った今でもわたしはその時どんな事をわめき叫んでいたのか妻に教えて貰っていない。
<つづく>
<日本人の男の子と金髪の女の子だけどおててつないで仲良かったよ。>
今回は「読ませる文章」に徹し、「ハチャメチャ路線」は一時中断です。しかしそこはかとないおかしみは感じて頂けたと思う。
次が楽しみだが次回また「ハチャメチャ路線」に戻るかどうかは不明といおうか微妙です(=^ o ^=)(=^ o ^=)。
ではでは皆様ごきげんよう。
<'09.07.14.19:35追加記事>
今日病院で超音波検査と先日の大腸内視鏡検査の結果を聞きに行きました。内視鏡の生体検査の結果は良性ポリープで問題ないとの事で、もう一方の超音波検査の結果は脂肪肝気味と分かりました。これは自己管理で治せる範囲なので心配は無用です。
わたしの事は以上ですが、午後から今度はうちの陛下(パピヨン犬♂6歳)を近くの病院に連れて行きました。
結果から先に申し上げますが明後日手術する事になりました。
ご存知の方もいらっしゃるとは存じますが陛下は皮膚疾患の治療を受け続けていたのですが、その他にも結石で何度か血尿が出ていました。本日その件で超音波とレントゲンの検査をしました。その結果どうも一番面倒なところにシュウ酸カルシウムの固まりがある事が分かり手術をする事になりました。短期間ですが入院する事になります。手術は失敗する事も十分考えられるとの事ですが致し方ありません。決断した以上後はただただ手術の成功を祈るのみです。
ではでは・・・