おフランスでは・・・シェ~
『英雄の妻は自分の夫が英雄である事を知らない』
ということわざがあるらしい。
多分ナポレオンの最初の妻であったジョセフィーヌの事を揶揄して出来たことわざだと推察するが当たらずといえども遠からずといったところだろう。
ところで『英雄』は『えいゆう』と呼ぶのであって、けして『ひでお』と読んじゃいけないよ(爆)
時々居るんだよね。
そういうピントの外れたお人が/(>_<)\
あ、うちの奥さんじゃないよ。
だってうちの奥さんは
『村田英雄』を
『むらたえいゆう』
と読んだからね。・・・
と云うのは冗談だけれど、過去にわたしも赤の他人に本名を何度か間違えて呼ばれて唖然とした事が何度もあったからね。
「おいおい、どこをどうしたらそう読むんだよ!」
・・・みたいなね;(*◇*);
U3というニックネームだって本当は「ゆーさん」って読んで欲しいんだけれど「ユースリー」と呼ばれたり、「うーさん」と呼ばれたりいろいろだ(≧o≦;)・・・まあ「ユースリー」は何か「U2」みたいでかっこいいけど、「うーさん」は何だか間が抜けていてとても「胡散臭い(う~さんくさい)」!
皆様からのコメントは「U3さん」というのが圧倒的に多いのだけれど、実はそれだと上記の呼び名からいけば「ゆーさんさん」になっちゃって「♪愛燦々と・・・♪」なら歌にもなるけれど「ゆ~燦々と~」じゃ歌にはならんは云いにくいはで皆様にもご迷惑を掛けっぱなし(笑) だから本当は「U3」だけでいいんです。今度からコメントを下さる場合はそうしていただけるとありがたいです。
(ところで「えーゆー」とキーボードを打って「英雄」と変換しようとしたら何故か「au」に変換してしまった賢いATOKでありました。やはり横着せずに「えいゆう」と打たなくちゃいけないね。ちなにみわたしは「SoftBank」)
まあ、脇道に逸れるのはこれくらいにして、最初の『英雄の妻は自分の夫が英雄である事を知らない』をU3風にアレンジすると『U3の妻はU3が想像以上にお馬鹿である事を知らない』または『U3の妻はU3が外では意外とモテる事を知らない』などとなってしまうのですが一応冗談と書いておきましょう。うちの奥様もたまにはこのブログ覗くらしいから(笑)
え~と、そんな訳で(どんな訳じゃい!!!)、冒頭のフランスのことわざにかけて
『〇〇の妻(夫)は〇〇が△△であることを知らない!』
この〇〇や△△に好きな文字を入れてコメント欄に書き込んだらけっこう遊べるのではないかとふと思った次第である。まああくまでお遊びなので興が乗った方だけでけっこうです。良かったら「酸化」じゃなかった。・・・「讃歌(賛歌)」でも「傘下」でも「産科」でも「惨禍」でも「営業三課」でもなくて、よろしければ『参加』して下さいな!
ただし、人を中傷したり、不快にさせる様なものはUPしないでね。皆が見て楽しいものになる様心掛けて下さい。
(^ ^)(^ ^)(=^ _ ^=)(=^ _ ^=)(=^ o ^=)(=^ o ^=)(=^ ▽ ^=)(=^ ▽ ^=)
<ただいまU3変身中・・・>
全てに云える事だけれど
長続きのコツは
けして無理をしない事だ。
勉強然り、恋愛然り、人間関係然りである。だから無理をしてまで記事をアップしたりブログを継続する必要はないとわたしは思っている。書きたいものがなかったら書かなければ良いし、続けるのが嫌になったら少し立ち止まって休むか止めてしまえば良い。読んでくれる人がいるからとか、書くと約束しちゃったから何としても書かねばなど思ってはいけない。人の事を気に掛けるよりもまずは自分に正直に生きる事だ。人間は無理をせずに自然体でいるのが一番良いのだから。
わたしは思いつく儘にいつも記事を書いているが、書いた後でしばらくそのまま記事をストックして置いて後で読み返す事にしている。そしてこれは公開しても良いなと思うものだけをいつもUPしている。いつもストックしてある数は10を下廻る事はない。もちろん文章は「鮮度」が大切なものもあるのでその場合は公開する順番が前後する事もある。そして残念ながら当然「お蔵入り」する記事も出て来るのである。わたしはこれは駄目だと思う記事はさっさと削除する事にしている。自分が見て下らないと思う文章は人が見ても下らないのである。無理に公開する必要はない。
写真も同じである。自分が見てつまらない写真は他人が見てもやはりつまらないものだ。わたしはデジ一は持っていないし「スナップ主義」だから三脚を立ててじっくりと構図を決めてから写真を撮ったりなどしない。その瞬間瞬間を<image>して撮っているだけである。だから駄作の山でもあるのだが無理して駄作を出す積もりは更々ない。文章であろうが写真であろうが全ては「感性」で決まるというのがわたしの持論だ。何で撮ったのか分からない被写体や撮影意図が見る者に伝わって来ないものはいくら細工をしようが糊塗しようが光り輝きはしない。何故ならば本人すら創造的イメージが湧かないものが他人に感動を与えたり啓示を与える事はけしてないからである。「偶然の産物」もたまにはあるだろうが確率的にもかなり低いものだ。人に感動を与える事やインパクトを与えるものが全てで無い事はもちろん承知している。ただ漫然と情報を垂れ流す事にどれだけの意味があるのかわたしには甚だ疑問である。勿論それだけが文章や写真の魅力ではないが・・・
今日、NHKの総合テレビを見ていたら毒蝮三太夫(どくまむしさんだゆう)が出演していて、その「毒舌」の由来について話をしていた。あの「クソばばあ」とか「狸ばばあ」とかはすべて亡くなった母への愛情表現だった事が分かりこころ動かされた。学歴もない三太夫の母は読み書きすらまともに出来なかったが高校や大学ではけして教えてくれない「人としてしなければならない大切な事」を教えてくれた母だったという。そしてそれが本当の意味での「教育」であった様に思うとも語っていた。
その母が、何の見返りさえないのに、体が不自由で目の見えない近所の老婦人を、十数年も一緒に銭湯につれて行って体を洗ってあげた事が評価され、「総理大臣賞」を受ける話が持ち上がった時、
「表彰されるなんてそんな恥ずかしい事をされるのは嫌だよ。わたしは他人(ひと)の為にそんな事をしたのじゃないし、自分の為にしたのでもない。ただ自分が出来る事だからしたんだよ」
という言葉に三太夫はTVカメラの前で「何を格好つけやがってと思ったけれども・・・」と語っていたがその目は潤み亡き母を誇りに思い感じている事が見る者のこころにひしひしと伝わって来た。「あれはもしかしたらボランティアの走りだったんじゃないかな。ボランティアとは本来自発的にするという意味があるらしいから自分の意志でないものや人に強制されてするものはボランティアじゃないんだね。そういう意味では母のした事は本当の意味でのボランティアだったように思う」という言葉には大いに納得させられた。売名行為や親切の押し売りやみんながしているから自分もするというのは本来ボランティアではないのである。
自発的に、
かつ自然な気持ちでするからこそ
長続きもするのである。
それから、「演技」に目覚めたのも母のお陰だと語っていた。実体験として、戦中戦後の食糧難の頃の話をなされていたがそれが「演技」をする原点であったという。当時、疎開先で弁当の中に白米を入れる事が出来ず母が苦心してコウリャンを入れて呉れた。いまでこそコウリャンは健康志向の人には「雑穀米」(の中に入っているもの)として知られているが、当時コウリャンは疎開先では馬のエサであったという。同級生がその赤い色をしたコウリャンを指して「赤飯なのか、お祝いか何かあったのか」と揶揄された時、「本当はその場で怒って弁当をぶちまけても良かったのだけれど、苦労して弁当を作ってくれた母を思うとそれが出来なくて、「うん、今日はお父さんの誕生日なんだ」とか「親戚におめでたがあってね」とか云ってごまかしておいしいおいしいと云って食べた・・・」のだという。それを仲のいい同級生が三太夫の母に「今日こういう話があってね」と包み隠さずその事を伝えたらしく、家に帰ってきた三太夫を見て、「何も言わなかったけれどわたしの顔を見た母の顔は何だかはにかむ様な嬉しい様な微妙な表情をしていて、その時の母をとても美しく感じた」と語った三太夫の目にはまたもや涙が浮かんでいた様に思う。そして三太夫はその時、たとえ嘘をついたとしても人を喜ばせる事は人を傷つけるよりも遙かに良い事だと気づいたがその事が演技する事の原点になった様に思うと語っていた。そしてその原点の前には母の「人の喜ぶ事をしなさい」という言葉があったのだという。
<陛下はいつも元気そのもの(=^_^=)>
三太夫の話を聞いて、日常生活に於いても自分の心を偽ってでも「演技」する事は人を喜ばせる又は悲しませない為にも必要なのは理解できる。しかしわたしにはそれは出来ない。わたしは逆に「正直に生きなさい」、「けして嘘をついてはいけない」と親に教わったのだ。そしてわたしは自分に正直に生きて来た。嘘をついた事はあるが自分の為に嘘をついた事はあまりない。長じてからは特にそうである。しかし、嘘をつかないという事は真実を語るという事でありそれは取りも直さず波風を立てる結果にもなっていた。それはわたし自身が望む事ではなかったし、いつもそれで損をしていたがそれでも自分を変える事はなかった。
実はわたしはけして積極的な方ではないし元々怠惰なので結果的に嘘をついたと同じ事になった事は数限りなくあった。その過半は億劫がって守れなかった安易な約束事である。気分屋なので成り行きで約束してしまったりするのだがその過半は守れていない。まあ、仕事では約束は絶対だから一度口に出した約束は守っているが、プライベートとなると
からきし駄目男になってしまう。
特に何の気無しにした約束や約束させられた場合はことごとく全滅である。その「被害」に遭った人から見れば多分わたしは「嘘つき男」だろうし「信用の置けない男」だろう。
多分その中に「天然のうちの奥様」も入っている。
(=^_^=)(=^_^=)(=^_^=)(=^_^=)(=^_^=)(=^_^=)(=^_^=)
だから最近は
『けして約束しない男』
に変身中である f(´_ `); /(*´`*)\m(-_-)m
<U3の今日の格言>
「約束は破る為にある」
というのは約束を守れなかった事に対する云い訳に過ぎない。やはり、約束は一旦したならば守らなければならないのだ。逆を返せば・・・、
「出来ない約束はしない事」だとも云える。
たとえ、相手をその場で喜ばせたとしても、結果的に出来なければそれは「失望」に替わりやがて相手の「信用」や「友情」を失う事になる。だとしたら最初から安易に約束などしない事だ。