<'09.07.16 陛下の手術は今日午後からです。~'09.07.16.17:36確認。陛下の手術は無事成功いたしました。全部で3つ大きなシュウ酸カルシウムの固まりがあったのですが全て取り除けました。現在おしっこも2回して血尿の気配もなく順調な回復との事です。抜糸は後日となるでしょうが早ければ明日退院です。多くの方々からご心配を頂いた事を、またご声援頂いた事を心より御礼申し上げます>
運命の女神はたやすく微笑まない
あなたが準備怠りなくその時が来るのを待ち構えていればその運命を取り逃がす事はないだろう。しかし殆どの者は何を準備しておけばいいのか皆目分からず、その運命が来た事さえ気がつかずあたらチャンスを取り逃がしてしまうのである。
運命の神は女神である。したがって気まぐれで移り気でしかも気短で捉えどころがない。しかしだからといって運命を変えられないというものでもない。なぜならば運命の半分は女神の領分だが、残りの半分は自分の能力と努力によって掴み取る事が出来るからである。分かりやすく言い換えるならば、女神がまずチャンスを与え、能力のある者がチャンスを生かすのである。
そのチャンスを生かせた者だけが運命というあらゆる選択肢の中から幸運を掴み、取り逃がした者はおのれの悲運を嘆く事になるのだ。
だがここで云って置かねばならない。取り逃がした者は運命の女神に見放されたのではない。取り逃がした者は幸運を招いた者ほど努力もせず己の能力も磨いていなかったのか、さもなくば時流をよく見ていなかったので、当然のことながら時機が到来した事を察知できなかっただけなのだ。
時流に乗れない才能はいくら卓抜していても認められる事はない。
・・・ただそれだけの事なのだ。しかしその差はあまりにも大きい。好機を見過ごしせっかくのチャンスをむざむざと取り逃がしてしまったのだから。
ちなみにわたしは悲運を嘆いた事は一度もないが残念ながら後者に当て嵌まるだろう。そして次のチャンスは待つにはあまりにも歳を取り過ぎた。
あなたがもし幸運を掴み取りたいと思うならば、運命の女神に見放されたくないと思うのであれば、己の能力を磨きゆめゆめ努力を怠らない事だ。そして好機を待て!アンテナを張り巡らせ!時流に乗れ!チャンスはそう何度も訪れる訳ではないのだから・・・。
だがここでわたしから一言だけ忠告しておこう。どんなに運に恵まれようとまたは見離されようと一喜一憂してはいけない。常にこころを一定に保ち泰然自若と構える事が肝要である。なぜならばこころが移ろい易い者に、気まぐれな運命の女神はけして微笑まないのだから。
わたしの好きなブログは数々あれど・・・
その中でもわたしの中で今HOTなblogは四つ程存在する。いずれも写真中心に掲載しているブログでありそれぞれ違った個性・感性があって甲乙付けがたい。
まず男性陣ではくらいふさんとrebeccaさんがわたしの好きなブログの双璧です。
くらいふさんの写真はややアンダー気味に露光が抑えられていてとても落ち着いて見る事が出来ます。自然の風景中心ですから見るだけで心が洗われ癒されます。一方rebeccaさんの写真は毎回一点のみ掲載されます。しかしその一枚はとてもインパクトがあり見るものの目を引きつけて放しません。そしてこのお二人に共通して謂える事、それは物語性が感じられるという事です。いつも写真一つ一つが何かを語り掛けわたしに迫って来る様に感じられます。作り手の感性が伝わって来るとても良いブログだと思います。
次は女性陣のブログですがこれもまた写真を中心に据えたブログです。
その二名とはまぐろとわさびさんとがぁこさんです。お二人はまったく感性が違いますがわたしはそれぞれのブログを楽しんでいます。まぐろとわさびさんのブログの魅力を一言で云えば風景や情景を独特のアングルで切り取っていて文章もそれにとてもマッチしているという事に尽きます。一方のがぁこさんの魅力は何と云ってもフォギーなといおうかソフトフォーカスを多用したその柔らかな写真のタッチにあります。この写真と物語性のある文章と相まって独特な雰囲気を醸し出しています。
皆さんもこの四名のブロガーをよくご存じだとは思いますが、もしご存じでなければリンクを辿って訪問してみて下さい。きっとあなたの心の琴線に触れる何かをきっと見いだせるはずです。
他にもすばらしいブロガーがたくさんいらっしゃるのは重々承知しておりますが、この四名の方のみ敢えて選ばせて頂いたのは、わたしが(たぶん皆様も)虚心で見る事が出来て、尚かつわたし達に感動を与えてくれるブログだからです。
そこで思い出されるのはこれら素敵なブログと比肩しても遜色がない、というか文章も写真も申し分ない卓越したブログがかつて存在していたという事です。そのブログを作成されていた方は今はソネブロに存在しません。
<つづく あるいは THE END>
※この先を皆様が知りたいと願えば「つづく」になり、関心を持たれない様であれば「THE END」となる。
『ヘルニアン』VOL.4
<看護師の云う事を聞かない男>
妻から麻酔から覚めた時の一騒動を聞かされたその日の夕方、わたしはトイレに行きたくなってそばにいた看護師にその旨を伝えた。その日わたしは術後の経過からICUを出て一般整形外科病棟に移る事になっていた。妻もその為に病院に留まってそばにいた。
お小水はチューブでバッグに納まるので心配はないのだが、大きい方はそうはいかない。点滴で栄養は摂っており食事もお粥をお昼にほんの少し口に入れただけなので殆ど出ないであろう事は想像できたが何しろ便意が収まらない。看護師は簡易便器を用意するのでここでしろという。衆人環視の中でオマルに座れとは何ともはや羞恥の極みである。わたしは断固拒絶した。
「歩行器を持って来て下さい。わたしは多目的トイレで用を足します」わたしは看護師にそう云い放った。
看護師は駄目だと云ったがわたしは痛みに唸りながらも上体を起こして今すぐ歩行器を持ってくる様要求した。若い看護師達ではわたしに対応できないと思ったのかもう一人の看護師が師長(昔で云う婦長の事)を呼びにICUから出て行った。師長はすぐさまICUに現れた。
「U3あなたどう云う積もりですか。まだ絶対安静の身ですよ。今無理をすれば後々ひどい事になるかも知れないのですよ。それでもいいんですか?」
「絶対にそうはならない。わたしは立ってトイレに行って誰の手も借りずに自分で用を足す。ただそれだけだ。」
「そんな体で歩けるんですか?歩く積もりですか」
「歩行器があれば絶対歩ける筈だ。誰にも迷惑は掛けない。歩行器をここに持って来て呉れ」
「仕方ないですね。看護師を二人補助に付けてトイレに行って貰いましょう」
「いや、歩行器さえあれば一人でも大丈夫だ」
「いいえそうはいきません。もし何かあったら全て病院の責任になりますから」
トイレの中では云った通り全て自分でこなした。思った通りガス以外殆ど何も出なかった。ICUに戻ろうと廊下に出たらわたしが病院に持ち込んだ一切合切の物を看護師が手分けしてICUから外に運び出しているところであった。
「どうしたの?」
「一般病棟に移る事になったのよ」妻がそう云った。
「U3にはそのまま〇〇〇号室に移動して貰います。歩行器でそのまま向かえますか?」
「ええ大丈夫です」
わたしはそのまま数十メートル廊下を歩いて手術前に入っていたとまったく同じ病室に収まった。手術用の下着や手術衣を脱いで看護師さんに背中と両足をタオルで拭いて貰い、前の方は自分で拭いた。それから妻が持って来たマイクロフリースの上下に着替えた。
「看護師さんご免なさいね無理を云って。主人は一度云ったら聞かないものですから。こんな我が儘な人は居ないでしょう?」
「いいえ、そんな事はありませんよ。それより手術翌日に歩き出した患者さんをわたしは初めて見ました(笑)気丈なのですね。普通は二日三日様子を見て立つんですよ」
「あの、女房殿、看護師さんは忙しいんだからそんな余計な質問はしないで早く解放してあげなさい。ほら他の病室でブザーが鳴ってるよ。看護師さん、わたしの事は良いから他に廻って下さい。女房ももうすぐ帰るから」
わたしは元の我が儘男にすっかり戻っていた。妻はただただ呆れるばかりであった。
<つづく>
今回もハチャメチャではありませんでしたね。悪しからず。
<U3の今日の格言>
「果断! これこそが問題を解決する唯一の方法だ」
問題は先送りすればする程解決が困難になりこじれて収拾がつかなくなる。時機を逸すれば何事も旨くいかない。その事は肝に銘じるべきだろう。
どんな判断を下そうと全てが丸く収まるという事はあり得ないし、必ずどこかに齟齬があるものなのだ。ましてや自分だけに都合の良い解決法などあり得べくもない。それでも果断に早期解決しなければ問題はもっと大きくなり一人二人の力ではどうにも手に負えなくなるものだ。
実際に問題解決を先送りにしたならばどうなるか。ここにひとつの例がある。その者は体裁や世間体を気にして断固たる措置が取れなかった。自分の弱みが明るみに出るのを恐れたのだろう。まさに紛争相手の思う壺だ。相手の非をなじり、自分を正当化して私は被害者だと声高に叫び、自分の落ち度には目をつぶるか隠していては物事は解決しない。それでは実際に罪ある者がやっている事と程度の差こそあれ五十歩百歩である。自分だけ良い子になる訳にはいかない。人生にはたとえ泥を被ろうとも過ちを認める潔さも時として必要なのだ。それをしないが為に失う信用や信頼は計り知れないという事をまずは知るべきであろう。当人がそれを悟れない以上物事を解決できる筈がない。案の定泥沼化して根本的な解決はされないままだ。
事が起こった場合、問題を解決する事により100%状況が良くなる訳ではない事を理解すべきであろう。それで得るものがあれば、失うものもまた有るのである。しかしそれでも果断にかつ速やかに解決を図らなければならない。その決断が出来ない者ははじめからおとなしくしているしかない。また、人を頼るべきでもないだろう。最後に決断を下すのは当人しかないがそれも人に頼る様では本末転倒である。自分の問題は自分で解決を図るのが基本なのだから。