明けましておめでとうございます。
お久し振りです。本日は年頭を飾るにふさわしいお話(ホント加代)をひとつしたいと思います。主題は『おのれを識る』という事にしておきましょう。
明けましておめでとうございます。
お久し振りです。本日は年頭を飾るにふさわしいお話(ホント加代)をひとつしたいと思います。主題は『おのれを識る』という事にしておきましょう。
小さい頃から馬鹿だ馬鹿だと皆に云われ続けてン十年。すっかり馬鹿振りが板に付いてしまったわたしです(笑)
世間一般では馬鹿だと云われて反発を覚えるのが常の様で、わたしの様に「ああ俺って馬鹿だったんだぁ。そうなんだ。教えてくれてありがとう」と思う人は少ない様である。大概が「馬鹿と素直」は対になっている様で、「馬鹿=誠実=正直」と云えるだろう。今の世の中「嘘ばかりつく愚か者」とか「頭はいいのに心がねじ曲がっている者」とかは往々にしているけれど「馬鹿で嘘つき」とか「馬鹿なのにひねくれ者」とかは見掛けた事がない。欧米でも「正直者」といえば「馬鹿」を指す隠語であるくらいだから世界共通の認識であえると云えるのかも知れない(笑)
そういえばビリー・ジョエルの歌に "HONESTY" というヒット曲があったね。
ところで「馬鹿」と対称を成すのが「利口」と云うことになるようであるが、利口は馬鹿よりもマシかと云えばそうではない様に思える。大体において皆さんが見て利口とかいう者はガッコーの成績が良く高学歴であるとか社会的地位があるとか肩書きが立派だとかいう事で判断される事が多い様である。が、たとえ東大を卒業しても愚か者はいるし、著名人の中にだってどうしようもない人物はいる訳で、「利口」そうに見えるまたは利口そのものであるから良いという訳ではない様に思える。また、勉学の成績の善し悪しと利口である事とは何の因果関係もない。
わたしに云わせれば
勉強が出来る=お利口さん ではないと思っている。
そもそも勉強が出来る出来ないは、勉強の仕方(答えの出し方)を知っているか否か、記憶力が良いか悪いか、その様なお仕着せの勉強をやる気が有るか無いかという事であって、学校での成績が良いからといってけしてその人の優秀性を決定せしめるものではないのである。社会に出ても然りである。わたしが思う図式は以下の通りである。
成績が良い≒決められた事は良くできる→創造力に欠ける
得てして勉強の出来る人は決められたレールの上を歩くのは得意だが道無き荒野を歩く勇気は持ち合わせていない様に思える。あらかじめ設問があり正解があるという環境では極めて優秀だが自分でオリジナルなテーマを決めてその解を探求するという事にはまったく向いていない様に思われる。
これは 学業優秀な者≠社会に出ても優秀 という事でも良く分かる。
なにしろ社会に出てからは「課題」はあるかも知れないが「設問」はない。そして何より「正解」というものが無い上にその「基準」すらない。学校での優等生が社会に出ても優秀であり続けたり成功するとは限らないのである。そして成績優秀である事と利口である事とはまったく因果関係もなければ決定因子ですらないのである。
であるから 勉強が出来る≠お利口さん なのは理解して頂けたであろう。
そして 頭脳明晰≠学業成績優秀者≠お利口さん も同様であろう。
ところで「利口」という言葉をそのまま解釈するならば「口が利く」つまり「言葉が巧みであるとか口数が多い」という意味であって、そういう本来の意味からすれば「利口」と言われてあまり喜んではいられないのではなかろうか。むしろ「利口」である事を他人に覚(さと)られてはならないとお馬鹿なわたしなら思う。
その様な経緯からわたしの考えるお利口さんの定義は以下の通りである。
他人の自分への評価が全ての基準=良い子でいたい
となる訳である。これは利口とか賢いとか一般に云われる者の本質を突いていると思う。
利口者は自分の利益になる事には実に貪欲であり平気で嘘もつけるし実に要領がよい。その上自分より馬鹿に見える者には実に冷淡だ。馬鹿は利用するものと思っているフシさえある(笑) でも本当の馬鹿は利口な者などに利用などされないというか利用する事も出来ないほど馬鹿だという事に気付きもしない(爆) 利口者は本物の馬鹿と馬鹿もどきの区別が付かない様だ。そういう事からすれば利口者は結構脳天気であるといえる。#58942;
利口者には他にも「保身に関しては人後に落ちない」とかいろいろ特徴があって、自己の評価の形成には人一倍気を使っている事が覗われる。しかしながらいざという時には世の中の価値観や人の評価などあっという間に雲散霧消してしまうから利口に振る舞ったとてあまり意味などないのだと早く気付くべきなのだろうね。でもプライドが邪魔してかなかなか真理には近づけない様だ#59120;
利口な人は馬鹿な人を指して「馬鹿だと損ばかりする」と思っている様であるがけしてソンな事はない。「正直者は馬鹿を見る」という諺もあるが正直であったり馬鹿だからといっていつも損をしている訳ではない。もちろん馬鹿正直で損をする事もあるけれど、馬鹿正直だからこそ信用を得る事だってある訳でけして「馬鹿だと損をする」バカりではないのである。つまり馬鹿も利口も損をするのも得をするのもその機会は平等である。たとえば利口者が陥りがちな譬えとして「策士策に溺れる」という諺だってあるのである。あまり知恵が廻り過ぎる者は人生のどこかで必ず信用を無くし挫折する運命にあると考える事だって出来る訳だ。だから下手(へた)に「利口者」などにはならない事が肝要である(笑)
冒頭に書いた様にわたしは馬鹿で正直だと自分でも思う。馬鹿だから利口者に比べて経済的にはけして得をしているとは思わないが、お金などとは別の観点から見れば利口な人より人生を有意義に過ごしているように思えるし得をしているかも知れない。何しろお金や物質的なものに価値観を見いだして満足感を得るタイプではないのであくせく働く必要はないし、人を出し抜いてまで儲けを得ようと腐心したり、人との競争に打ち勝ってステータスを得る必要など更々無い訳で、それだけでも「馬鹿な生き方」は良いとわたしは思うのである。
わたしからすれば馬鹿は利口よりいくらか得をしていると実は思っている。どの様に思っているか列記してみよう。第一に、馬鹿だから許してくれる事は多いけれど利口には許されない事が多い。第二に、馬鹿は馬鹿だからこそ愛されるが利口は憎まれるか妬まれるか疎まれるのは必定だ。第三に、利口者は利口だからこそ知恵が廻り、知恵が廻り過ぎるからああでもないこうでもないと神経をすり減らしストレスがたまる一方だ。
その点、馬鹿には知恵がないから答えをあれこれ考える必要がない。だから答えはいつもひとつかふたつだ。わたしの場合は答えを絞る時は直感に頼る部分が多くあまり論理的に考える方ではない。だからといってお利口な人の論理的?な考えに基づいた結論にわたしの直感で得た結論が見劣りするかと云えばそうでもないのが現実である。
人生において選択肢がいくらあろうが無かろうがそんな事が大切なのではない。ましてや数多くの選択肢をあれこれ考えられるお利口さん的な能力が備わっている事が重要なのではない。大切なのは人生の岐路において正しい方向に進む能力があるかないかである。そして多くの人は人生の岐路において論理的にひとつの結論を導き出す訳ではない。そこで判断するのは主に感情であったり感性であったりするのである。そして感情や感性は一朝一夕で形成されるものではなく生まれてこの方の生き方や生活習慣によって培われるものである。
直感とはそういう下地があって生じるものであって判断や決断といういうものの正体といえる。けして論理的な思考が判断の基になっているのではないのである。だから下手に知恵があるのは判断や行動の邪魔になる。むしろ「百害あって一利無し」なのだ。ならば「知恵」ではなく「直感」に頼った方が遙かにうまくいく確率は高いのではないか。
つまり馬鹿の方が知恵がないだけに選択肢は限られ、あれこれ考えるだけの知恵や、他人が自分の事をどう思うかなどと云う邪念が働かないだけに正しい判断をして、結果として人として正しい道を歩む事が可能であるという訳だ(笑)
『天才は一見馬鹿に見えるものらしい』
「天才と気違いは紙一重」という譬えがある。「天才」と「馬鹿」にも同じ事が云える。利口な人は馬鹿が考える事を「下手な考え休むに似たり」とばかり下らない事を考えるのは時間の無駄以外の何ものでもないと思っているらしいが、常識で考えたら馬鹿らしい事に真剣に取り組む事によって偉大な発見をしたり発明をしたりした人は案外多い様である。かの発明王エジソンはもの忘れが激しかったいう。あまりにもひとつの事を考えて他の事をすっかり忘れてしまうのが常であったとものの本で読んだ事がある。有名な話だが新婚旅行で列車に乗ったはいいが、しばらくして気づいたら新妻をホームに残した挙げ句、見送りに来た大勢の人にも上の空でひとり列車に飛び乗ってしまったというエピソードの持ち主であったようだ。
もちろんわたしが天才だなどと云っている訳ではない。わたしは凡庸であり見てくれも悪く馬鹿そのものだ。時々自分ではいいアイデアだと思うものが頭に浮かび、うぬぼれで「俺って天才?」などと思う事もあるがそのアイデアを実行して一度としてまともな結果が出た例しがない(笑)
馬鹿は馬鹿なりに生きるべきである。馬鹿が利口ぶっても仕方ないし利口ぶったらもう馬鹿ではなく愚か者の仲間入りである。馬鹿を卒業すればもう二度と馬鹿には戻れない。エデンを追われたアダムとイブの様に二度と無垢のままではいられないのである。
だからこそわたしは
『死ぬまで馬鹿を通したい』
と切に思う。
ところで
新春にふさわしい話題
・・・だったでしょうか? (爆・爆・爆)
ではここで何故この話題だったのかその種明かしをご披露!
え~、「笑点」の大喜利ではないけれど
「新年」と掛けて
「お馬鹿」と説く
その心は・・・
どちらもとても
「おめでたい」
・・・お後がよろしい様で・・・
今年も皆様の心に残るブログを目指す事をお誓い申し上げます。