しばらくまともな文章を書いていませんでした。
わたしは心から湧き上がるものがなければ書かないと決めたので前回の記事から大分間が空いてしまいました。更新がない所為なのかソネブロの仕様で知らない間に広告が入ったり、so-netの正会員であるにも関わらずソネブロのログインIDやパスワードが無効になったりしたものですから、二度ほど皆様へのサービスの意味も込めて形だけの更新もしました。しかしそれは皆様の望む形での再開とはならないことを頂いたコメントの行間から感じ取っていました。
そうは云ってもわたしは気まぐれです。身体の事もありますが、まずはわたしが「書きたい!」と思わない以上記事を更新する事は控えようと思った矢先、ついに書きたいと思う事が脳裏を過ぎったのです・・・・・。
『今は国家存亡の時です。小異を捨て大同に付き一致団結してこの難局を乗り切りましょう』
一聴、この言葉の響きはとても良い事の様に思われます。民主主義国家に於いては特にそうでしょう。しかし民主主義とはいったい何でしょう。結局のところ多数決の論理がまかり通るのが民主主義というものの本質ではないかとわたしは思うのです。確かに日本国憲法でも「少数意見は尊重する」とされていますが、実際のところは尊重などされたことはなく個人の尊厳は常に踏みにじられたままです。それが日本に於ける民主主義の実体です。民主主義とは実に危ういものなのです。わたしは問います。今の多数決による民主主義がいずれ全体主義に変貌しないと誰が確約出来るでしょうと・・・。ご存じの様に全体主義と民主主義とは正反対の考え方、体制です。である筈です。しかし、現実には民主主義と全体主義は表裏一体、実は同じものだなのだとわたしは看破しました。歴史を紐解けば枚挙に暇がないほど実例に事欠きません。あの北朝鮮ですら国家の正式名称は朝鮮民主主義人民共和国です。キム一族の世襲を前提とする軍事独裁国家の何処に民意など存在するのでしょう。いったいこの国の何処に民主主義が存在するのでしょう。民主主義が如何に形骸化しやすいものかその実体を見れば明らかです。わたしがここで何を云いたいのかといえば、時に「小異こそが大同などより遙かに大事」であることを人々は知るべきであろうという警鐘です。なぜならばそれは他人事ではなく自分のことだからです。
という訳で、今回のテーマは『異なるを以て常とす』です。この主題のアンチテーゼが実は現在の日本はおろか世界を席巻する思想、考え方、民意たるものの危うさを指し示しているとわたしは考えているのです。
『異』とは何か・・・。
広辞苑 第六版を見れば...【異】 ①ことなること。変わった点があること。別なこと。例文として 「-とするに足らぬ」「-文化」 反語として⇔【同】・・・とあります。 もう一つの説明文として②普通とは違って怪しいこと。また、すぐれていること。・・・とあり例文として「縁は-なも物、味な物」が挙げられています。そして最後にこれが来ます。③正統ではないこと。
この様に『異』という言葉には様々な少なくとも三つの意味があることが分かりました。広辞苑には『異』に関する熟語がこの後二十例も続きます。皆様はこの『異』の解釈・解説をご覧になられてどう思われたでしょうか。『異』という文字とその言葉の響きに肯定的な解釈を為されたでしょうか?それとも否定的な感情を持たれたでしょうか?・・・大概は後者だと思われます。人は異なるものを恐れ排除する心理が常に働いているのです。まずはその事をわたしも含めて皆様も認識すべきであろうと思われます。
人は皆自分が可愛いのです。言葉として素晴らしく思える「自己犠牲」は時に自分を利するために行われることは知って置いた方が良いでしょう。そして日本人に限らずあらゆる人種と民族は
「異なるものへの畏怖と嫌悪感を意識無意識に関わらず常に抱いている」
その事を知って欲しいと思っています。
「皆と仲良くしましょう」・・・これは小さい時から両親や先生などから教えられる事ですがこの意味することは何なのでしょう。それはこういう事です。「仲良くする」ということは「争いをなくす」ということなのです。人が生きていく上で自分が住む環境の中に不協和音があっては困るのは人の常です。静穏とやすらぎは人々の心を落ち着かせてくれます。・・・一時は。
しかし古今東西の歴史がわたし達に教えて呉れることは何でしょう。
人類の歴史はひとときの平和の後に訪れる長い争いの繰り返しだったという事実を誰も変えることは出来ません。それが人間の性(さが=もって生まれた性質)なのです。これは何を意味するのでしょう。人間の存在は果たして「善」か「悪」か・・・そんな事まで想起させる有史以来の人類の歴史が私達にその事を伝えています。「人」と「争い」は切っても切れない間柄にあるのです。いくら平安を願っていたとしても。
畳み掛ける様で恐縮ですが、人に限らず生きとし生けるものはすべて本質的に自己犠牲ではなく自己保存を前提として存在しているのです。この事がいつの世も争いや不協和音が絶えない根本原因であることはもはや自明の理です。実はその根本にあるのが『異』なのです。そして今になって思えば、というよりも少なからぬ人生を振り返って見れば、生まれてこの方常にわたしは『異端』だったという事です。だから常に排除の対象に晒されたというのがわたしの人生であった様に思われます。わたしの廻りで常に争いが絶えなかったのは「わたしが人(他人)と違っていた」ただそれだけの理由です。わたしが先に人を害した訳ではありません。常に喧嘩腰であった訳でもありません。むしろその逆です。小学校の頃、いやそれ以前からわたしは「人と違っている」「人と交わらない」というレッテルを貼られていました。本当はそうではなかったのですがいつもそう廻りから思われていたのです。そうは云っても昔は人々の心が穏やかで他人を思いやる心をまだ持ち合わせていました。ですから廻りの過半はわたしを受け容れてくれていたのです。しかし時に力の強い者や悪知恵が働く者から何かに付け苛められもしましたし、理由なく暴力を振るわれたこともありました。しかしある時自我に目覚めたわたしは豹変したのです。・・・謂われなき事への反発と自己防衛本能が働いたのです。わたしは今も普段は穏やかで明るい方です。しかし『異端』である事に何ら変わりはないのです。そして、前述しました様に人は「異なるものへの畏怖と嫌悪感を意識無意識に関わらず常に抱いている」以上、何か事が起こればわたしは排斥排除される対象に常にあるという自覚を持っています。ですからわたしの廻りから争い事がなくなることはないでしょう。構えて肩肘を張って生きる積もりは更々ありませんが、何らかの理由(大概は些細な相違)で攻撃されたり誹謗中傷に遭えばわたしは躊躇なくそれに反撃するでしょう。
自分の過去や考えを吐露してまでわたしが伝えたいことは何か。・・・それは『異』である事を否定してはならないということ。『異』は常にあなたの廻りにも、あなたの中にも在るということなのです。けして他人事(ひとごと)ではないのです。それを認識し『異』なるものを受け容れなければ未来永劫争いはなくならないだろうということをわたしは云いたいのです。それは人と違っている、または人と異なっている者を、「異なっている様に見えるけれども自分達と同じなんだ、実は皆一緒なんだ」という思いや考え方とは明らかに違います。わたしたちはお互いに違っているのが当たり前なのだということを理解しなければ異なる者への融和や協調などけして出来ないという事実を直視して欲しいのです。何度も云いますが自分は他人とは明らかに異なっているのが当たり前である事にまず気づいて欲しい。たとえ親子兄弟であっても双子であったとしてもまったく同じであることなどあり得ないという現実を認識しているにも関わらず、翻って自分が他人とは異なっているという根本的事実に何故人は気づかないのでしょう。皆と一緒であれば恐くない。仲間がいれば安心だ。それはわたしから云えば幻想です。何かの折りにあなたが異端のレッテルを貼られ排斥されることはけしてあり得ないことではないのです。これは自立心の問題でもあるとわたしは考えています。
人と異なっていることをまず自分自身が認め、他人が自分と異なっていることは常なのだ、そして他人から見た自分もまたそうなのだという揺るぎない事実を直視することによって相互理解が初めて生まれる。わたしはそう信じています。つまり今回のテーマである、
『異なるを以て常とす』
この事の理解無しに私達の廻りから争い事や不信、疑念、恐れといったものはなくなることはけしてないでしょう。
・・・次回に続きます。