<とある路地で見掛けた朝顔 何ともいえぬ色合いですね>
ひとつの言葉の後ろには
語られる事のない九十九の言葉がある
<とある路地で見掛けた朝顔 何ともいえぬ色合いですね>
ひとつの言葉の後ろには
語られる事のない九十九の言葉がある
<・・・前回からの続き>
ところでわたしが今一番関心を持っているのは実は『老子(老子道徳経)』ではなくて日本の『葉隠』である。これは太平洋戦争当時、戦争賛美的用いられ方をしたが為に戦後暫くは唾棄すべき書とされたいわく付きの書である。
『葉隠』そのものは江戸時代に鍋島藩の藩主や藩士に代々伝えられて来た門外不出の聞書であるが戦中は軍部がそれを悪用したとされる。だからこれは悪書なのだなどという考えが戦後暫くは続いていたが昭和五十年代になると『葉隠』は見直された観がある。
しかし何事も長く続かないのが日本人の国民性らしい。やがてその『葉隠』のブームも去って皆から忘れられていった。しかし、改めてその内容を読み解いてみると「素晴らしい!」の一語に尽きるのである。
これほど人生のあらゆる局面に於いて示唆に富む書物はない。
<7月下旬に行ったインド料理店>
<ランチバイキング950円食べ放題うまうま>
『葉隠』は「死」を基本に置いた人生論である。読まない人にはけして分からないだろう。
(読んでも分からない人もいるだろうけど)
どういう内容かここで要諦だけ説明して置こう。
『葉隠』を代表する有名な一節、「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」とは簡単に云うならば「事に当たって生きるか死ぬかを選ぶならば四の五の謂わずに死を選べ」と云っている訳だ。封建社会に於いてはたとえ義(正義)を貫く為に事を起こして成就したとしても、世間を騒がせた咎に問われ、良くて蟄居か切腹、悪ければ罪人として斬首を命ぜられる。家(=藩)を存続させる為には個人が犠牲になるという考え方に立っていたのである。また武士の死に方には、藩主の死を追う切腹(追い腹)もあったし、藩主に成り代わって切腹する死もあったし、藩主の仇討ちの末の切腹(殉死)もあったのである。『葉隠』ではこの中で犬死にとされた追い腹についてのみ語られていて、高尚な死とされる殉死について書いていないと批判する人も中にはいる様だが、わたしはもっと違う解釈をしても良いのではないかと思っている。この有名な一節には様々な解釈があり、わたしは葉隠を読み込んでいるとは言い難いが、この一節に込められた真の意味は「死に方に拘って時と場を誤るな」という戒めであると思っている。全てはこの「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」という大前提の上に構築されているのだ。
一方で『葉隠』は「十五年先を見据えて行動せよ」とも云っている。十五年先を見据えてご奉公せよと云って置きながら、その途上で義を立たねばならぬ局面に至れば、時至らずと考えて逡巡したり、犬死にではないかと詰まらぬ事を考えて死を先延ばししたりせずに今ここで真っ先に死ねつまり「今すぐ行動を起こせ」と云う激烈なメッセージがそこには込められているのである。上でも述べたが当時の武士は死に方を選んだのである。つまり名誉ある死かそうでないかは武士にとってもっとも重要な事であった。その中で犬死には不名誉な死だったのだ。にも係わらずそんな事を斟酌せず死ねというのは激烈でなくて何と謂えようか。
そんな激烈さとは裏腹に『葉隠』の大半は十五年先を見てご奉公に励めなどと日常の種々雑多な事柄を事細か記述している。この様な日常の事柄は「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」という大前提とは矛盾して相容れない様に見えるがそうではない。『葉隠』は「日常」を大事にしてこそ「死」に意味があるのだという事を述べているのである。前後の文脈と時代背景を理解すればそれは(簡単ではないかも知れないが)読み取れるのである。ちなみに「義」とは個人の正義ではない。藩及び藩主(主君)の正義を指す。
ところで『葉隠』は更にまた一方で「大高慢であれ」とも語っている。実はこの『葉隠』に記された「高慢」は皆様が想起する高慢とは意味がまったく異なる。そしてこれほど奥深いものはない。実のところわたしが目指しているのはこの「高慢」である。要は腹の据え方を論じているのが『葉隠』なのだ。普段から人前で言葉少なでは用を為さない。無口は何の考えも持たないただの臆病者だ。高慢である為にまず示さねばならぬのは「我こそは(家中又は日本国で)武勇一番なり」という大気概であった。これを高言してはばからないのが『葉隠』の謂う「高慢」なのである。それは普段から行動と言葉で表さなければならぬ。つまり『有言実行』である。言葉に出して人後に落ちぬと云う気概を表に顕し、そして実際にそれを実行するのだ。『雄々しさは尊く美しい』なぜならばそこには潔さと儚さがあるからだ。そこには妙な思慮深さも軽率さも一切存在しない。『葉隠』は普段は高慢であれと謂う。いつも気概を表に出せ、態度で示せと云う。しかし生か死かという二者択一を迫られたならば四の五の云わずに死を選べという。実に単純明快な話なのだ。(精神的土壌は複雑極まりなく一見矛盾だらけだけれどね)
だからわたしに云わせれば「不言実行」は臆病者か卑怯者のスローガンである様に見受けられてしまう。失敗した時の事を考えるから言葉に出さないとも云えるのである。公言しなければ誰に失敗を気づかれる事もない。よしんば気づかれたとしても同情されこそすれ非難される事はない。「不言実行」の人とは、『葉隠』のいう「大高慢」の対極にある「お利口さん」だとわたしは思う。しかしそんな「お利口さん」をわたしは責めたりはしません。誰でも自分の身はかわいいからね。「保身は世の常」「自己防衛は本能」気にする事はない。しかし次の言葉だけは頭の隅に置いておいた方がいいでしょう。
『義を見てせざるは勇なきなり』
それではいよいよ本題に入る事に致しましょう。という『葉隠』の話でもお分かりの様にわたしの文章はけして長くも短くもないのである。これは云わなければならないと一旦自分が判断したものは、云い淀んだり、のどの奥深く押し込んでしまってはいけない。全て白日の下に晒け出し大勢の人達の審判を仰がなければならない。それがわたしのブログにおける姿勢だといえます。分かって頂けたでしょうか?
ところでわたしが今何を考えているのか分かりますか?
『馬鹿の大足 のろまの小足 ちょうどいいのは俺の足』
、という言葉がふと頭をよぎりました。う~んU3って実に鼻持ちならない高慢な男だ!(^△^)
<ランチバイキングには6種類のカレーがあったがどれも適度の辛さでおいしく頂けた>
前回に引き続いて、またも偉そうな事を云っちゃってと思っている方もいらっしゃるでしょうね。実はわたし自身が我ながらいささか呆れているのだからそう思われても仕方がない。でもね、有頂天になっているなどと思われては困る。わたしはいつも冷静だからね。そうは云っても間違いなく反感買ってるよね(笑)気にしないけど(爆)
こんな事を書いているのだからU3という人物はさぞかし物知りなのだろうと思われても困る。過去に物を知らない事で何度か大恥を掻いたからこそただひたすら知りたいと思い、関心を持った事について調べ、読み、そして考えを巡らしているだけだ。
上記で述べた事はわたしの考え方であって皆様の考え方ではない。皆様は皆様であり、考え方も十人十色である。わたしの考えなんぞ屁の役にも立たぬと思われても結構。また、そう思う事の方が健全であろうと思う。考えは押しつける物ではないし、聞く者も無闇矢鱈と同調するのは甚だ感心しない。「こんな考えもあるんだな」ぐらいに考えた方が丁度いい。
前回からの記事はわたしが創作したフィクションから始まっているが、中には登場した人物をもって具体的な誰かを想起された方もいらっしゃるであろう。しかしあくまでもフィクションなので勘違いをなさらぬ様お願い致します。
ところで、前回登場した架空の人物ではなく、二、三年前に幾人かのブロガーに実際に苦言を呈した事があります。その苦言を呈したり問題を指摘した方々との関係はその後どうなったかといえば、怒ってわたしのブログから去っていった方が殆どである。人は誰でも自分の過ちや痛いところを突かれると怒るもの。自分も含めて誰一人例外はない。違いがあるとすればその時に理性が働くか働かぬかだが、大概の人は感情のコントロールが出来なくなる様だ。だから人に注意する事ほど難しい事はない。云い方をいくら変えても真意が100%伝わる事はないし、そんな事は不可能だ。皆様も人に注意をして相手から不快な目に遭わされた経験は一度や二度はお持ちであろう。
「人は心地よい言葉はそれがたとえ嘘だったとしてもすんなりとに耳に入ってしまうが、その逆であればそれがどんなに当人を思っての言葉だったとしても怒り、拒絶し、耳を塞ぐものなのだ」
まあ今のわたしは当人の為を思って忠告する事はないので、忠告した相手に嫌われちゃう事もあるんだけれどはじめはそうじゃなかった。本気で相手の身になって(なった積もりが正しい表現)色々アドバイスしたのだが誤解をされて酷い目に遭った事があるので、それ以来一切相手の気持ちを斟酌する事は止す事にしたし親切心も起こさない事にしたのである。『葉隠』でも忠告ほど難しいものはないと説いている。でもわたしには『葉隠』に書いてある様な手順を踏んで相手を説得する事は出来ない。また個人を相手にそれだけの事をする価値もないと今では思っている。むしろ大勢の人に向かって啓蒙していった方が遙かに世の中の為になる。だから今では個人相手は一切無しにしている。ところでわたしの友達には忠告しなければならない様な人は居ない。逆に、忠告しなければならない様な人物は友達ではないと思っている。
<スーリヤの帰りに寄った亀戸 船橋屋本店で買い求めた定番お土産 くず餅>
しかし、こういう文章(特に前回記事の様な内容のもの)を書くと往々にして誰かしら文句を言って来る事があるのも事実。わたしの様な断定的な物言いは特に人の反発を招くのでしょうね。まあそう思われる事を十分分かって書いているので確信犯なんだけれど(笑)
これはちょっと意味合いが違って特殊で極端な例だけれど、過去の事例を紐解けば、感情的になってわたしを批判するだけでなく事実無根の事柄を並べて誹謗中傷をした人達が居ましたっけ。もちろんブログ荒らしがらみです。
ある女にブログ荒らしの男が「あなたの事をU3という人物が非難しているよ」とそそのかした事が過去にありました。非難していると言われたのは実は非難ではなく「警告そのもの」だったのですが、それはブログ荒らしがそそのかしたこの女に対してではなく全くの別人に対してわたしがしたのものでした。しかしブログ荒らしの男はそれを利用しようとした様です。つまり、ある女に「あなたの事を言っている」と嘘をついて事態を混乱させようと謀った訳だ。
わたしはその時、この女ではなくて先に云った全くの別人に対して「こんな嘘っぱちを人様のブログに書くな。それから人を批判するのなら「ゲスト」でなんかコメントするな。いつも来ているアイコンで堂々と批判しなさい!」と自分のブログのコメント欄に書いたのだが、そそのかされたこの女は何をトチ狂ったのかわたしのブログに書かれているのは自分の事だとあろう事か自分のブログで大騒ぎをしたらしい。自分のブログで大騒ぎしたのはわたしのブログにコメントを入れても何の反応もなかった為らしいけれど、わたしはブログ荒らしの出方を見る為にブログ活動からしばらく離れていたから当初その騒ぎを知らなかった。わたしの友人が「変な女がU3に謝れと騒いでいるよ」と連絡を呉れて始めて知ったのだ。因みにこの女もそのブログの存在もそれまでわたしはまったく知らなかった。
その後この女はわたしにこの件は間違いであったと謝罪したり、かと思えばブログ荒らしにそそのかされて二廻り近く年上のわたしに対し愚かな説教までする厚顔無恥ぶりでただただ呆れるばかり。わたしは、この女と別のルートでコンタクトを取っていた方に「この女はブログ荒らしと同じ穴の狢だよ」と伝えてさっさと相手をするのを止めてしまった。そうしたらこの女はいよいよ本性を現してブログ荒らしと一緒になってわたしを非難し誹謗中傷を始めたのである。何の事はない、同じブログ荒らしの仲間である事をわたしだけでなく様子を見ていた大勢のブロガーの前に晒しただけだ。
友人からの情報では三十路で養〇学校教諭の資格を持つやたら栗の好きな〇西在住の女だったらしいがこの女がわたしの個人情報をどこからか入手して(それがどこの誰かも知ってるけれど)ブログ荒らしの首謀者の男に渡した事は間違いがない。この様な事がなければ皆があれほどの実害(明らかな犯罪です)を被る事はなかったし、問題の解決が長期に及ぶ事もなかったであろう。しかもこの女はブログ荒らしの真相をはじめから知っていたのだ。にも関わらずブログ荒らしの味方をしてわたしへの攻撃の手助けまでしたという訳だ。善悪の区別も付かない「おとな子供」では致し方なし。愚かさここに極まれりと云ったところだろうか。しかし「おとな子供」ではあるが、した事の罪は重い。従ってこの女をわたしは絶対に許す事はない。
ちなみに「こんな嘘っぱちを人様のブログに書くな・・・」とわたしが警告を発した別のブロガーも実はブログ荒らしの仲間でした。(何とこれも女らしい)そのブロガーはその後メインのブログ以外にもう一つ別のユーザー名でわたし一人を個人攻撃するブログをわざわざ作り、北〇道は札〇近辺からわたしへの誹謗中傷記事を繰り返し発信していました。その中でわたしは「人殺し」呼ばわりまでされましたが、これは明らかな犯罪行為であり個人が特定できれば刑事事件として(もちろん時効はありますが)いつでも告発可能です。
それにしてもブログ荒らしの根は深いね。ソネブロさんはあの時いったい何をしたのだろう?今思ってもあの時わたし達の連絡を受けて我々の要望していた「証拠保全」をしていてくれていたならば少なくとも「犯罪立証」が出来てこのブログ荒らし一味は根絶できていただろうに残念でならない。
という訳でわたしへの冷静な意見ならば素直に耳を傾ける度量は持っている積もりですが、感情的になってクレームを入れて来るお馬鹿さんを相手にするのはもう懲り懲りなのでわたしのブログにそんな詰まらないコメントは入れないでねとあらかじめお断りしておこう。
<行田公園で「芙蓉」と思われる巨大な花を見掛けた花弁の径は20cmくらい>
皆様、わたしの記事にここまで付き合って下さいましてありがとうございます。U3が何を云いたかったのか簡潔に述べる時が来た様です。わたしが云いたかったのは・・・
『俺の文章は長くねぇぞ』
ただそれだけです <m(^ 0 ^)m> あはは!
まさに「大山鳴動して鼠一匹」
あれだけ言葉を費やして実はこれが云いたかっただけ!失礼致しましたぁ!!!
これでU3も大した男ではない事を露呈してしまったね(=^_^=)
<手前にある手と比べると大きさが分かろうというもの 丁度わたしの手の長さは20cm>
冒頭の『ひとつの言葉の後ろには語られる事のない九十九の言葉がある』とは譬えです。
実際に九十九も表現しきれない事柄がある訳ではない。自分の意を相手に伝えるのが如何に難しいかをこの言葉で表したに過ぎません。それは言葉数が多かろうと少なかろうと丁寧に話そうとぞんざいに話そうと伝わる人には伝わるしその逆もまたあり得るという事です。わたしが短い言葉で表現する事は可能ですし過去にもそれは立証しています。簡潔に書く事などビジネスシーンでは当たり前の事ですからね。会社員時代わたしはそれを毎日嫌になるほどやっていたのですよ。報告書、企画書、稟議書、決算書類、プレゼンテーションありとあらゆるビジネス文書は簡潔さと分かり易さを求められています。でもそんなもの誰もわたしのブログじゃ求めてないでしょう。皆U3ワールドが体験したくてここに来て居るんだとわたしは思っています。だから出来るだけ多くの言葉を費やして様々な事を皆様にお伝えしたいと思っているのです。だからわたしは・・・
『例え九十九の言葉を費やしてでもこれはという事を皆に伝えたい』
と思っているのですね。ですからわたしの記事の内容には余計な言葉も言葉足らずもないのですよ。何しろ「・・・丁度いいのは俺の足」ですから。
たぶん皆様だってそう思っている筈です。私は私、俺は俺、自分のブログが一番だってね。私はそんな事はないと思っているあなた!・・・もしあなたがブログの書き方について誰か(特にU3)に何か指摘されたとしたらきっとあなたは不快になりますよ。たとえそれがいかに親切心から出た事であると分かっていたとしてもね。これは人間心理の真実です。聖人君子でもなければ他人から指摘された事をそのまま受け入れる事はないでしょう(笑)
でもそうして自信を持って書いた記事であっても読む人に自分の意を100%理解して貰える事は実のところまったく以て不可能ですよね。何故なら他の人はわたしではないから。至極当たり前の事ですが往々にして人はそれを忘れてしまい勝ちです。曰く、「彼なら友達だから分かってくれる筈だ」「彼女ならいつも好意的に受け止めてくれているし今回も大丈夫だろう」・・・しかしそれは幻想です。「・・・だから」などという仮定形ほど怪しいものはありません。わたしは「理解とは「理解しているという誤解」の上に成り立っている幻想」つまり「理解≒無理解」なのだと思う事がしばしばです。
<次回「友情と恋愛についてのU3的考察」につづく>
最後にひと言だけお伝えして置きたいと思います。今回のタイトル「葉隠は座右の書」ですが、わたしの座右の書と云っている訳ではないので誤解のない様にお願い致します。わたしは多くの書物や人物から影響と啓発を受けていますがこれはその中の一つであると申し述べて置きましょう。