旅に出るとは日常から離れることである。
そうであるが故に新鮮な驚きと感動がともなう。それはその地の歴史であり、そこに住む人々であり、その生活であり、そこでしか見ることが出来ない風景そして情景である。今回のスコットランドとウェールズへの旅ほど実り多いものはなかった。優しい人々、波乱に満ちた歴史、北国の雄大な風景どれをとっても語りつくせぬ想い出をたくさん脳裏に刻み込んで帰国した。
また行きたいと思う。しかしそれはもう叶わないかもしれない。
旅に出るとは日常から離れることである。
そうであるが故に新鮮な驚きと感動がともなう。それはその地の歴史であり、そこに住む人々であり、その生活であり、そこでしか見ることが出来ない風景そして情景である。今回のスコットランドとウェールズへの旅ほど実り多いものはなかった。優しい人々、波乱に満ちた歴史、北国の雄大な風景どれをとっても語りつくせぬ想い出をたくさん脳裏に刻み込んで帰国した。
また行きたいと思う。しかしそれはもう叶わないかもしれない。
英国を再訪しようと決めたのは2013年の夏にマレーシアに行った直後であった。コロニアル様式の英国統治下の建物や避暑地のキャメロンハイランドなどで見たプランテーションは英国を想起させるに十分であったし再びUKの地を踏みたいという気持ちを抑え切れなくなった。
初めての海外旅行はロンドン-パリでしかも新婚旅行だった。今を遡ること二十八年前だ。次に英国を訪れたのは三年前。わたしはその間一度も海外に出ていない。妻は結婚二十年目を過ぎたあたりから海外に毎年行っていたがわたしはその頃結婚以来勤めていたある企業に在籍しており仕事を休めなかったのだ。この会社は新婚旅行で仕事を休むことさえ渋る前時代的な企業だった。社員を使い捨てにする事を平気でしていたので今はブラック・カンパニーのリストに間違いなく載っているだろう。
そんな企業に見切りを付けて晴れて九年前個人事業主になり時間はある意味自由に使える様になった。しかし仕事がなくなればおまんまの食い上げであり一気に生活が出来なくなる。だから当初は仕事を立て続けに受注した。その間にあった父親の死や二度の入院も乗り越え経済的にも少し余裕が出て来た独立五年目あたりから自分の時間を大切にしたいと考える様になった。そんな折妻から英国に行かないかという話があった。妻が何度も行ってお世話になっている英国の友人夫妻がわたしに会いたがっているというのだ。その夫妻と妻は妻がロンドンに留学中に知り合いそれ以来の友人であった。わたしは新婚旅行で妻に初めて紹介されてそれ以来の付き合いでその後も何度か日本で会って共に何日か時を過ごした間柄だが新婚旅行以来英国内で会うことは一度も無かった。そういえば夫妻とはもう何年も会っていない。・・・ふと懐かしさを覚えた。
そして「行って見ようかな」そのひと言をぽつりとつぶやいたのだが、妻はそれを再会受諾と受け止め旅行の手配を早々と済ませてしまった。手配をしただけでなくその事を英国人夫妻にメールで伝え夫妻からも歓迎するという返事まで頂いたものだから、最早仕事や何やらを行かない口実や言い訳にする事は出来なくなってしまった。仕事をどう調整して自分の時間を作るか頭を切り換える事にした。かなりの無理をして時間を作ったのだがしかしその甲斐は十分にあった。本当に行けて良かったと思ったのだ。前回の英国旅行から流れた二十五年の歳月はわたしの心の中のすべてをいつの間にか変えてしまったのだと思う。そう、生き方さえも・・・。その事を知らされたのが三年前の英国旅行だったのだ。
その三年前の旅行は本当に駆け足のようなもので旅気分を満喫したとは云い難かったが一方で濃密な時を経験した。三十五年近く働きづめで仕事以外無かった人生だったからこそ日常を離れて自分を見つめ直すには良い時間だったのかも知れない。勿論そんな事を意識して海外旅行に出た訳ではないが結果としてわたしの心の中に変革が訪れたのは事実だ。
三年前の旅行期間は九日間だった。実質は一週間にも満たない中で湖水地方やウェールズそしてコッツウォルズまで駆け足で廻ったがパックツアーのような忙(せわ)しなさは微塵も感じなかった。それもこれも妻と英国人(正確にはウエリッシュとイングリッシュの夫婦)の友人が色々と取り計らってくれたから充実した日々を送る事が出来たのだと思っている。今回の旅行もこの三人には幾ら感謝してもしすぎることは無い。
三年前は妻はわたしが帰国したあと約三週間英国に留まった。その間ロンドンやマンチェスターで暴動が起こった。仕事があって日本に戻ったわたしは妻がその頃マンチェスターにいると知っていたのですぐに連絡を入れた。無事だということだった。妻の帰国後に写真を見せて貰ったが暴動の傷跡はマンチェスターの街角のあちらこちらに見られた。
今回の旅行は約三週間の滞在である。わたしが今まで生きて来た中で病気で入院した以外では最長の休暇期間だった。最後のウェールズの友人宅で過ごす一週間を除いてすべて自分でプランを練り飛行機やレンタカーなどの移動手段や宿の手配を済ませた。緻密かつ時間に余裕のあるプランを立てた。しかし物事は予定通りに行かないのが常でありハプニングは付きものだ。暴動に遭遇することは無いかもしれないがきっといろいろな事を経験するに違いない。
ちなみに入院は手術を含む治療と療養が目的であって厳密には休暇ではないが、その事によって心身共にリセットされるから敢えて休暇と捉えている。
それでは英国旅行記を再開しよう。
空は晴れている。エジンバラ空港に着いた昨夕からずっとそうだった。しかし上空の風は強い。今朝行ったアーサーズ・シートの頂でもそうだったが雲がちぎれ飛ぶように流れている。目の前の田園地帯は収穫期を迎えているように思われた。黄金色の麦穂が風の流れや強弱を正確に映し出して右に左にせわしなく靡(なび)いていた。妻が車の中で作ってくれたサンドイッチを頬張りながらわたしはその絵に描いたような風景を眺めていた。しばらくして運転席のドアを開けて外に出た。
私たちは13:30にエジンバラを出てスターリングに向かう途中だった。妻は決まった時間に食べる食習慣なので午後2時を過ぎたあたりから我慢がならず「どこかで車を停めてお昼ごはんを食べよう」としきりに催促する。スターリングの道路案内板が出たらそこでM9(高速自動車道)を降りて適当な昼食場所を探そうとわたしは云った。妻がどうしても今すぐ食べたいというので高速を降りた後一旦は住宅街の道路端に車を停めた。妻は回りも気にせずすぐに食べ始めたが住宅街なので人の目があるようでどうにも落ち着かない。妻は食べている最中だからと反対したが「すぐそこだから」といって先ほど目にした風景の良さそうな場所に戻ることにした。
左折してM9のインターチェンジの方向に200メートル少し戻って今度は右折してその道に入った。曲がってすぐの右の道路際にカントリーレストランがあった。もちろんエジンバラのマークス・アンド・スペンサー(M&S)で買ったコールスローと野菜サラダそして生ハムとチーズそしてブラウンブレッドという食材が用意されていて、それでサンドイッチを作って食べるのでスルーだ。
その先のM9に架かっている石造りの陸橋を越え田園地帯に入った。予想通りすばらしい風景だった。右に大きなサイロがある農場と左手の麦畑の中に農家が一軒見えた。この風景が特に良かったのでそこであらためて遅いランチを摂る事にした。
わたしは道路の右手の大きなサイロを持つ農産物の加工場らしき入り口付近に車を停めていたのだが、わたしが車を降りようとすると大きなトレーラー車が左手からやって来てそこに入ろうとした。一瞬自分の車が邪魔になると思ったが腕の立つドライバーなら切り返しをしなくても通過出来ると判断し静かにドアを閉め脇へ退いた。トレーラーのドライバーと目が合った。助手席には若い男も乗っていた。わたしはニコリと笑った。妻は車の助手席で食事中でその状況にはまったく無関心で気にも留めていない。トレーラーに接触したらひとたまりも無いのにと思ったがまあ大丈夫だろう。
トレーラーはその横を慎重に右旋回しながらゆっくりと通り過ぎて行った。ずっと車の移動する先を見ていたらサイロの前で一人の栗色の髪に白髪の混じった初老と思しき男が出迎えている様だった。ドライバーはトレーラーを停めるとエンジンを切ってステップを伝って地上に降りた。そしてひとしきり握手をしながら挨拶を済ませたように見える。その後初老の男とドライバーはこちらを指差して何事か話をしている様だった。
わたしはとっさに二人に手を振った。そうしたら何と二人は白い歯を見せて笑いながら手を振り返してくれた。どうやら入り口に車を停めたことを許してくれたようだ。妻は我関せず、まだランチを黙々と食べていた。
わたしはそんな妻に声を掛けてから車を離れ写真を幾枚か撮った。本当にすばらしいスコットランドの田園風景だった。旅行のハンドブックやパンフレットに載っても少しもおかしくないほどの風景だ。今回の旅行ではこの風景が平凡に思えるほど幾つもの雄大なランドスケープを目にすることになるのだがこの時はそれを知る良しもない。
麦の穂が風に吹かれなびく軽やかなざわめきが今も耳に残っている。真夏の午後3時近くだというのに気温は20度に届いていなかった。風が心地よい。
スターリング(Stairling)は昼食をとった場所から20分も離れていないところだった。少し迷ったがカーナビで見れば一度通過したところに今夜の宿がある筈だった。宿はメインストリートに面して左手に平行に走っている狭い道路の先にあるのだがメインの道路より3メートルほど高い位置にあったので宿を通過しても気づかなかったのだ。中心街手前の左手の一方通行の通りを大きく迂回しながら先ほど通ったひとつ手前の信号機のある交差点に戻り、その交差点の少し手前の道に車を乗り入れた。左折して100メートルも行かないうちにその宿の前に着いた。
テラス・ホテル(Terraces Hotel)、スターリングの中心街に近い観光にはもってこいの場所にある宿だ。格付けはたぶんBだろう。チェックインを済ませ荷物を運び込み少し休んでから街に出ることにした。
ここはスコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスとロバート・ザ・ブルース所縁の地であり、二人がイングランドに戦いを挑んだ歴史的場所だ。近隣にはスコットランドの命運を左右したその当時の有名な古戦場跡が三つもある。
まずはショッピングセンターに立ち寄り書店でこれから行く先々のOSエクスプローラーマップ(地図)を買った。その書店前の赤いベンチに座ってこれからの予定を再確認しようと思っていたら右の方から来た東洋人と思しき人物が声を掛けて来た。スコットランドで初めて会った日本人だった。
「日本語が聞こえたから思わず声を掛けてしまった」との事だった。
聞けばエジンバラ大学で柔道の大会がありスコットランドに来たのだという。日本の某大学の職員で大会のサポートスタッフとして滞在しているとの事。スコットランドは初めてで来て二週間目になるが今日は大会は休みなのでエジンバラの街を探索しているのだという。
「これからどこに行くのか」と聞かれたのでその事を伝えると「それなら早く行ったほうがいい。一時間もしないうちに閉まってしまいますよ」と言われた。急ぎスターリング城を目指すことにした。
縫うような石畳の上を古い街並みを眺めながら足早に歩いた。途中監獄跡や大きな教会を横目で眺めながら長く結構傾斜のある坂を登っていった先に案内板があった。そこを上ると広い駐車場があった。スターリング城は目の前だった。パッと見は思っていたよりも小さい。石垣の廻りに空堀がありそして城門がある。スコットランド国旗やスターリング城の旗が鈍び色の空になびいている。その城門を潜ってからチケット売り場で妻が観覧時間を尋ねた。あと三十分で観覧時間は終了だという。すべてを見るのにどのくらい掛かるのか聞いたら足早に見ても最低二時間は必要だという。時間が無い。
結局観覧時間がなくゆっくり出来ないと分かったので明日あらためて見ることにした。私はせわしなく見るのは嫌なのだ。英国人は日本人の分刻みの忙しないツアー旅行を”It's Japanese”といって笑いの対象にしている。
じっくり物事を見ることが出来ない旅行で何を得ることが出来るのか?・・・ということなのだろう。
わたしもそう思う。
行く前に十分に下調べをして、そして現地で実際にそれを見聞きして感じることを大切にしたい。
街中を目指して再び坂を下りることにした。帰り際左手を見ると黒と黄のストライプのバリケードに囲まれてロバート・ザ・ブルースの像があった。たぶん工事中なのだろう。台座あたりがまだ未完成のようであった。更に左手遠方を眺めたらアビー・クレイグという丘陵に建つウォレス・モニュメントが見えた。13世紀、ウォレスはエドワード一世率いるイングランド軍の動向をこの丘の上から偵察して勝利したのであった。この戦いはこの丘陵地帯のほとりを流れるフォース川に架かった橋の攻防戦スターリング・ブリッジの戦いとしてあまりにも有名である。もっとも当時の橋は川の流れも変わってしまって現存していない。したがって現在のスターリングブリッジは位置も姿形も当時とは異なる。
このスターリングブリッジの戦いは13世紀の事だがこのモニュメントが出来たのは19世紀だ。スコットランド独立の気運がその頃から高まり始めていたのだろう。因みにウォレスのあとを継いだロバート・ザ・ブルースはスコットランド貴族の出でスコットランド最初の王となった人物だがウィリアム・ウォレスほど庶民には人気がない。それはスコットランド貴族ではなく主流のスコットランド人でも無いという出自を持つウォレスをブルースが利用してそして最後は見捨てた(旗色が悪くなると距離を置いた)からだと思われる。
ウィリアム・ウォレスのWallaceという姓はWelshmanつまり(表面的には)ウェールズ人という意味である。これは実際にはウェールズ人ということではなくて同じケルト系の民族ではあるがアイルランドから渡って来た主流のスコットランド人ではなく、祖先がもともとブリテン島に先住していたスコットランドでは傍流のケルト人であることを意味している。おそらく同じケルト系民族でも主流ではなく傍流であるが故に(古代英語で云うところの)ウェールズ”Wales”の原義である「よそ者」という意味で使われたものであると思われる。
ちなみに生粋のウェールズ人を自負する者は自分達をよそ者を意味するウェルシュ(Welsh)とは呼ばずカムリ(Cymry)と呼ぶ。しかしわたしが見る限りウェールズ人はスコットランド人ほど誇り高くかつ頑なではない。よそよそしさなど微塵も感じない接するものを温かく迎え入れる包容力とそれでいて威圧的ではない威厳を持つ民族、それがカムリ(Cymry)なのだ。でもスコットランド人も今回の旅で大好きになった!(笑)
カムリ(Cymry)とは「同胞」という意味である。
そのCymryとは英語ではなくウェールズ語で冒頭のyはaの発音で語尾のyはiの発音だ。変だなと思った人も多いだろうがウェールズ語では母音が五つではなく七つある。yはそのひとつである。ちなみにウェールズ語はスコティッシュ(スコットランド人)と同じケルト民族が祖先でもまったく言語体系が異なる。というよりケルト系民族は大きく分けて七つの系統に別れヨーロッパの各地に分散して住んでいる。その為かそれぞれがまったく独自の文化言語体系を持ち殆ど交流がない。その中でも極め付けの異文化を持つのがウェールズ人つまりカムリ(Cymry)なのだ。英語に慣れ親しんだ人はウェールズの地名を見てまったく読めないことが多い。それはそうだろう根本的に英語とはまったく異質な言語であり文法もまったく違う。だから英話が出来る日本人だけでなくイングリッシュやスコティッシュも同じ様にまったく理解できないのである。世界中でウェールズ語を話せるのはたぶん200万人にも満たない筈だ。つまりヨーロッパの中でも少数民族の部類に入る希少な民族なのである。
話を元に戻そう。ウォレスがイングランド軍に捕らえられたのはスコットランド貴族の裏切りだといわれている。ロンドンに連れ去られ絞首刑のあと最も重い刑罰といわれる四つ裂きの刑に処せられ四肢をまったく別々の場所に晒されたウォレスだがスコットランド民衆の心にはスコットランド独立の礎を築いた英雄として今に到るも尊敬されている。
日本で云えば鎌倉幕府の頃の話である。源頼朝に人気が無く敗れ去った義経に今もって人気があるのと何か共通しているものがあるように思われる。判官贔屓は洋の東西を問わないのかも知れない。
モニュメントは遠くから見てもその威容はなかなかのものであった。明日はスターリング城を見た後あそこに行くつもりだ。映画ブレーブ・ハートでもおなじみのかの有名な長剣を見たいと思った。いつの間にか空がどんよりと曇り始めていた。「一日の中に四季がある」という英国の天気で晴れが一日続くことはまず無い。昨夕方から今日の昼まで青空が見えていたのが奇跡なのだ。明日の午後はたぶん雨だろう。そう思ったら小糠雨が降りだして来た。早く夕食の場所を見つけなければ。
あちらこちら探しているうちに雨脚が強くなった。軒先に雨宿りしていると向かいにパブレストランとおぼしき店があったのでそこに駆け込んだ。タータンチェックの壁紙が目に飛び込んで来た。
<つづく>
うちの奥様からスマホメールがあった。
「WANちゃんのドッグフードとおやつとムーミンのウェットを買ったので家に戻った時に立て替えた代金払ってね」という内容だった。
・・・何気に見ていたから一瞬訳が分からない。
「ん!?、ムーミンのウェット???」
・・・どうやらWANちゃん用に使っている赤ちゃんのお尻拭きウェットシートの
「ムーニーマン」の事を言っている様だ。
うちの奥様は相変わらず天然さんである。
<2014.10.25速報!!!>
ムーミンのウェット!(爆)