法人はあっても個人はない。
国家はあっても国民は不在である。
それがこの国の現実の姿なのだと思う。
主権在民とありながら憲法の保障する等しく与えられるはずの
国民の生存権や文化的生活を享受する権利は所謂勝ち組だけのものだ。
定職に就けない者や社会的弱者は権利を剥奪されている・・・というよりいつも蚊帳の外だ。
一旦企業から離れた者や非正規雇用者や母子家庭や身障者や介護を必要とするご老人などは
社会の底辺でただ喘ぐしかなくそこから這い上がって来られる者はほんの数える程しかいない。
国家の側や企業の側にいる者は勝者の論理で底辺に喘ぐ者を見下し蔑み憐れむ。
曰く、学歴がない。努力が足りない。運がなかった。等々。
しかし自分が如何に恵まれた環境で育って来たか
幸運に恵まれて生きて来られたかに思い至る者は稀で
自分の立場が実は砂上の楼閣の上に建っている事に気づく者は少ない。
長い間曽根風呂を留守にしていた。
仕事が忙しくて疎かにしていたのではない。
一言で謂えば飽きたから更新をしなかった。
ただそれだけである。
休んでいて分かったのは記事を更新しなければという強迫観念がなくなったということであった。来て下さる読者の方々やフォロアーの方々に応える為にとか、記事を書いて何がしかのメッセージを伝えたいなどというのは、実はおこがましいことだと気づいた。
正直に申し上げてフォロアーや読者を引きつけるだけの記事を書くのはそれ程難しい事ではない。遣ろうと思えばいつでも読者は増やせる。そしてその実績もある。ただし時間があればの話だ。これは思い上がりでも驕りでもなくて事実だから仕方がない。
要は僕が書く意欲を持続出来るかどうかの問題だと思う。そしてそれはものを書く事のモチベーションが保てるかどうか、新たな意義を見出せるかどうかの問題だと思う。意味のないものに時間を掛けるのはただ虚しいだけだ。それが理由でブログ活動を休止したのだ。
しかし創作意欲がなくなったという訳ではない。今までしていた事に飽いただけなのだ。書く事を再開するにはモチベーションが必要だった。それが見いだせなかった。
そうはいっても落ち着きのない僕である。五ヶ月も何もしないでいるとむずむずして来る。実は今年の二月からある企画が水面下で進行中である。皆さんの見えないところで毎日少しずつではあるが進行しているのだ。現在の進捗状況は全体の2/3を少し超えたところだろうか。始まれば半年以上は楽しめるコンテンツになっている。
という訳で、いずれ大作を引っ提げて復活の予定である。
ところで、・・・・・・
復活の暁にはソネブロを席捲します。
予言して置きます。
あはは!
ではまた会う日まで御機嫌やうやうやうやう
やうやう白くなりゆく 山ぎはすこしあかりて
むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる