いきなりですが『裁判員制度』は恐らく日本人には馴染まない制度だと思う。
- 真理の探究
わたしは見た目も言動も日本人っぽくないとよく云われます。しかしそのわたしから見てもこの裁判員制度は日本人に馴染まない制度だと思う。
日本人は好戦的だとはよく云われます。だがわたしから見れば実はその真逆だと思う。聖徳太子も云うように「和を以て貴しとなす」が日本人の魂の根本にあると思う。それを忘れた時に日本は戦乱や飢饉といった天変地異に遭っている。つまり日本人の魂が常態になっていない時に災厄が訪れているのだと思う。
神代の昔から日本人は戦いに明け暮れて来たのは間違いのない事実だが、それでもなお人は和を求めていたのだ。それが今に至る日本人が日常生活の中で必要以上に争いを避ける感情に繋がるのだが、争いと人を裁くこととは同質の要素を含んでいる。それは大半の日本人は争いを避けて通りたいと願っているのに、裁判員制度はその日本人の希求する「和を以て貴しとなす」の精神の対極にあるからだ。だから日本人に合わない。
神代の昔から日本人は戦いに明け暮れて来たのは間違いのない事実だが、それでもなお人は和を求めていたのだ。それが今に至る日本人が日常生活の中で必要以上に争いを避ける感情に繋がるのだが、争いと人を裁くこととは同質の要素を含んでいる。それは大半の日本人は争いを避けて通りたいと願っているのに、裁判員制度はその日本人の希求する「和を以て貴しとなす」の精神の対極にあるからだ。だから日本人に合わない。
故に裁判員の通達が来たらあらゆる手を使ってでも裁判員になることを拒否しようと思う(笑)
日本の裁判員制度は恐らく米国の陪審員制度等を参考にしたと思われるが、西部開拓時代から私刑(リンチ)によって民衆が直接人を裁いて来た国柄とは違って、お上が罪人を裁くのが日本の従来からの法の在り方だ。その根本的な精神土壌というか慣習を忘れて、欧米型の司法制度を作る事自体に大いに違和感を感じるのはわたしだけであろうか。
それに死ぬまで裁判で見たことも、聞いたことも誰にも話しちゃいけないなんて、わたしには土台無理な相談だし、惨たらしい事件現場の映像など見せられた日には、一日中気分が悪くなって食事も喉を通らなくなるばかりでなくて、暫く夢にまでそれが出て来そうだ。
挙げ句の果てはPTSDになってしまうかも知れない。何しろ現代の日本人はストレスに弱い。
こんな国民の福祉や精神衛生に害を為すかもしれない裁判員制度が、原則断れないなんて絶対におかしいと思う。
それに、俺って肝っ玉も〜〇玉も小さいしぃ〜(爆)。
それに死ぬまで裁判で見たことも、聞いたことも誰にも話しちゃいけないなんて、わたしには土台無理な相談だし、惨たらしい事件現場の映像など見せられた日には、一日中気分が悪くなって食事も喉を通らなくなるばかりでなくて、暫く夢にまでそれが出て来そうだ。
挙げ句の果てはPTSDになってしまうかも知れない。何しろ現代の日本人はストレスに弱い。
こんな国民の福祉や精神衛生に害を為すかもしれない裁判員制度が、原則断れないなんて絶対におかしいと思う。
それに、俺って肝っ玉も〜〇玉も小さいしぃ〜(爆)。
てな訳でいきなりではありますが、
裁判員制度に変わる、
国民の、
国民による、
国民のための新制度を、真剣に考えてみた(笑)←笑ってるけど本気!
わたしが考えるに、裁判員制度などという精神衛生上良くないそんな国民の福祉の向上にも繋がらない制度を続けるくらいなら、これを廃止して新たに『国民政治員制度』なんてものを設ける方が余程良い。
『国民を真の意味で国政へ参画させる』という訳である。
国会議員を「選良」などという言い方をするが、今の国政議員を見るととても選良とは言い難い。腐敗は生むは、私利私欲に走るは、これじゃわざわざ国民は「選賤悪」17:11:00修正を選んでいるようなものだ。としたらもう代議員制度自体が形骸化している。
ならば今の国会運営と議員構成を、国民の声をダイレクトに反映させる新たなシステムに変えてしまえば良い。
それにはまず今の国会議員の数を半分にすることだ。
そしてその国会議員と同数マイナス1名(つまり過半数を超えない範囲)で、政治に関心有る無しも、支持政党有る無しも関係なく、それこそ無条件・無作為で抽選して「国民政治員」なる国民を全国から選出し、一年間政治に関わらせるのだ。
ただし関わるのは衆議院のみに限定する。
勿論一年後は元職場に復帰することを保証することも肝要。
何故衆議院のみ参画させるかといえば、参議院議員はこれからも専門性を持った政策の深い掘り下げをして欲しいからだ。そうすれば「参議院は存在意義があるのか」なんて論議はなくなるはずだ。
ならば今の国会運営と議員構成を、国民の声をダイレクトに反映させる新たなシステムに変えてしまえば良い。
それにはまず今の国会議員の数を半分にすることだ。
そしてその国会議員と同数マイナス1名(つまり過半数を超えない範囲)で、政治に関心有る無しも、支持政党有る無しも関係なく、それこそ無条件・無作為で抽選して「国民政治員」なる国民を全国から選出し、一年間政治に関わらせるのだ。
ただし関わるのは衆議院のみに限定する。
勿論一年後は元職場に復帰することを保証することも肝要。
何故衆議院のみ参画させるかといえば、参議院議員はこれからも専門性を持った政策の深い掘り下げをして欲しいからだ。そうすれば「参議院は存在意義があるのか」なんて論議はなくなるはずだ。
勿論「国民政治員」の権利は正規の選挙で選ばれた代議員の権利に準ずる。報酬も同様だ。政治員報酬以外に政党助成金ならぬ、国家政治員助成金も支給される。そして当然ながら法案の審議に参加し、法案の議決に加わり、可否の議決数が代議員と同様に反映される。
議決票に代議員と国民政治員間の優劣はない。実に平等で公平ではないか。
専門知識もないのに出来るのかなんて事は気にしなくてもいい。第一、今の一期二期の衆議院議員の専門知識なんて、国会中継を見る限りに於いては、一般国民の知識レベルと大差ないだろうし、多選議員は奢り昂ぶって庶民感覚からは完全に遊離している。却って一般人の方が品行並びに品性もよろしく、その清廉潔白さや使命感は現在の衆議院議員の及ぶところではない。政治員を積極的に受け入れる人物ならば学習意欲はあるから専門知識は直ぐ頭に入るはずだ。
何より政党の規則にも縛られないから公正・公平な目で物事を判断できるのが良い。しかも今の政治システムに欠けている大事な点が大幅に改善される。
それは政治の腐敗と権益構造の蔓延だ。しかしながら国民の目がダイレクトに国会内に入ることの衝撃は、代議員の言動に大きな変化をももたらさずには置かないだろう。国民の目が現実として直ぐ隣にあるとしたら、不正など容易に出来にくくなるのは必定だ。
そして国民政治員は政府機関と首相官邸と閣内と閣議以外の場所には自由に出入りし、その内部をつぶさに見られる様にする。政党に属していなくても、各政党の会議や会合に参画こそできない(してもいけない)がその場に同席することを可能にし見学は自由という事にする。そうすることで各政党の透明性は飛躍的に高まる。各政党も議案について賛同を得る為には必死に理解して貰おうと努力する筈だ。何しろ党員じゃないから党則で拘束できないからね。
あ、料亭での会合や食事会は「NO GOOD」ね。国民が密室政治の温床になるこんな下らないこと覚えちゃいけません。
こうすることによって、何より国民ひとりひとりが国政に対する関心が高くなり、政治が自分たちの生活に直結することを感じ取り、真剣に政治を考えることに間違いなく繋がるはずだ。
専門知識もないのに出来るのかなんて事は気にしなくてもいい。第一、今の一期二期の衆議院議員の専門知識なんて、国会中継を見る限りに於いては、一般国民の知識レベルと大差ないだろうし、多選議員は奢り昂ぶって庶民感覚からは完全に遊離している。却って一般人の方が品行並びに品性もよろしく、その清廉潔白さや使命感は現在の衆議院議員の及ぶところではない。政治員を積極的に受け入れる人物ならば学習意欲はあるから専門知識は直ぐ頭に入るはずだ。
何より政党の規則にも縛られないから公正・公平な目で物事を判断できるのが良い。しかも今の政治システムに欠けている大事な点が大幅に改善される。
それは政治の腐敗と権益構造の蔓延だ。しかしながら国民の目がダイレクトに国会内に入ることの衝撃は、代議員の言動に大きな変化をももたらさずには置かないだろう。国民の目が現実として直ぐ隣にあるとしたら、不正など容易に出来にくくなるのは必定だ。
そして国民政治員は政府機関と首相官邸と閣内と閣議以外の場所には自由に出入りし、その内部をつぶさに見られる様にする。政党に属していなくても、各政党の会議や会合に参画こそできない(してもいけない)がその場に同席することを可能にし見学は自由という事にする。そうすることで各政党の透明性は飛躍的に高まる。各政党も議案について賛同を得る為には必死に理解して貰おうと努力する筈だ。何しろ党員じゃないから党則で拘束できないからね。
あ、料亭での会合や食事会は「NO GOOD」ね。国民が密室政治の温床になるこんな下らないこと覚えちゃいけません。
こうすることによって、何より国民ひとりひとりが国政に対する関心が高くなり、政治が自分たちの生活に直結することを感じ取り、真剣に政治を考えることに間違いなく繋がるはずだ。
まあ、それには憲法にそのことを付け加えたり修正したり、関連法規を改正しなければならないが、憲法第九条を改正する国民投票を実施するくらいなら、『国民政治員制度』を設ける国民投票を実施して、この事を実現する方がよほど国民の意識の向上と、生活の向上に繋がるはずだし賛意も得られやすい。
しかもこれは国民の国政参加について語る「憲法前文の精神」に完全に合致する制度でもある。
その前文の中ほどにある「〜国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」という文言にも、建前だけでなく本当の意味でなれるチャンスなのではないか。
だとしたらこれこそが国民の望む制度であり国政の在り方だ。皆さん如何!
<余談>副題:無関心が何かにつけ一番良くない。
実は冒頭に「惨たらしい事件現場の映像など見せられた日には、一日中気分が悪くなって食事も喉を通らなくなる」などと書いてありますがこれはあくまで喩えというか他人の反応などを経験を踏まえて書いたものであり、実際のわたしはそれほどヤワではありませんし、そういう事の「耐性」は高いです。
しかし無神経じゃないです。むしろ妻には「繊細な神経の持ち主」だと云われております。これ冗談で言っている訳じゃなくてホントです。若い頃から観察眼が鋭くて人や自然や風景を悉に眺め、対象の動きとか変化に敏感だったし、今もそれは変わらない。まあ観察眼が鋭すぎるので疲れますどね。
しかし無神経じゃないです。むしろ妻には「繊細な神経の持ち主」だと云われております。これ冗談で言っている訳じゃなくてホントです。若い頃から観察眼が鋭くて人や自然や風景を悉に眺め、対象の動きとか変化に敏感だったし、今もそれは変わらない。まあ観察眼が鋭すぎるので疲れますどね。
ところで冒頭に裁判員制度について書きましたが、そのことに関連して人の『罪』というものに言及したいと思います。
冒頭の話ではありませんが、わたしも大方の日本人の様に普段は争いごとを避けます。出来るだけ関与したくありません。しかしある二つの要素がそこに内包されていると認識した場合には、わたしの心の警報が鳴るようにセットされているのです。
ひとつは、直接攻撃された場合とそれを看過すれば何れ自分の身に災厄が及ぶ場合です。そしてもうひとつは弱い立場の人が貶められたり危害を加えられたりしているのを目撃した場合です。この二つの条件の一つでも当て嵌まった場合、わたしは行動に移ってしまう。何故ならそれに我慢がならないからです。
ひとつは、直接攻撃された場合とそれを看過すれば何れ自分の身に災厄が及ぶ場合です。そしてもうひとつは弱い立場の人が貶められたり危害を加えられたりしているのを目撃した場合です。この二つの条件の一つでも当て嵌まった場合、わたしは行動に移ってしまう。何故ならそれに我慢がならないからです。
わたしは曲がったことが大嫌いです。人の嘘も悪意も見過ごせません。他人を傷つけたり、貶めようとしたり、欺すような行為は何であろうと看過できない質です。ですからそんな事を目撃したらついつい口出ししてしまう。そもそも自分が嘘をついてしまったとしたら、それこそ自責の念で夜も眠れなくなって、そんでもって結局昼間寝ちゃいます(笑)。と、まあそれは冗談ですが「盗人にも三分の理」はわたしには通じないです。
そういうわたしの姿をソネブロの方々はよく見ているので、わたしを攻撃的人間だとか、うるさい奴、面倒くさい奴と思っておられる方もいるでしょう。それで離れていった方は数知れず(笑)まあ逆にそれを気に入って頂いて、新たに読者になって下さった方もおられるので、世の中うまくで来ているものだなとは思います。
ですがわたしが攻撃的人間か、と問われればそれは誤解だと申し上げるしかない。何しろわたしは何もしない人まで糾弾したりはしませんので。ただ売られた喧嘩は買います。決着がつくまで遣ります。卑怯な人間は見逃すつもりはないのです。ただ自分という人間を分かっていないおバカな人間とは話(議論)をしません。共馬鹿にはなりたくないので。しかしこういう人間に限って卑怯な手を使うものでその際は鉄槌を下すしか方法はありません。そしてその方法はいつも相手の意表を突き尚かつ過激です。二度と悪さをしないようにするにはそうするしかありません。
この様に自分でも困った性癖だと思っています。ですがこれは一生直らないだろうと思います。何故ならば、わたしにとってこれらのことは無辜の人々の存在と生命が人の悪意によって危機に晒されるという根源的な問題に根ざした重要な事柄であるだけに、人の不正行為や心の奥に潜む欲望や悪意を看過できないのです。
こんな時のわたしには傍観者さえも悪に見える時があります。それは過去に於いて実際に傍観者が弱い立場の人間を見殺しにしたのを幾度も見て来たからです。
これはただ単に恐いから、巻き込まれたくないから、見て見ぬ振りをするという様な単純な話ではありません。それら傍観者の心の中に「自分だけ良ければ他人のことなどどうでもいい」といった心情や「人の不幸を楽しむ」感情が潜んでいるからです。影に隠れて悪さをしたり人の不幸を楽しむような人たちが、一番質が悪いことをわたしは知っているのです。それは犯人や悪人そのものよりも場合によっては質が悪い。ソネブロでも過去も今もそういう連中が悪さを繰り返している。ただ多くの人はそれを知らないだけです。
直接危害を加えてくるものは撃退することも可能です。だが、こうした人々は罪の意識もない。その行為によって、被害を受けた者が心を痛めることもあるということをこの人達は知らない。知ろうともしない。だから(知らず知らずのうちかは知りませんが)人を傷つけても、のほほんとしていられる。これを無意識の悪というのです。とにかく自分達だけが良ければ人のことなどどうでも良い、という心が胸の内にあるのであればその人の心に悪が在るのは明白です。胸に手を当てればそれは分かる筈です。分かっているのにそれをやる。愚かです。
そういうわたしの姿をソネブロの方々はよく見ているので、わたしを攻撃的人間だとか、うるさい奴、面倒くさい奴と思っておられる方もいるでしょう。それで離れていった方は数知れず(笑)まあ逆にそれを気に入って頂いて、新たに読者になって下さった方もおられるので、世の中うまくで来ているものだなとは思います。
ですがわたしが攻撃的人間か、と問われればそれは誤解だと申し上げるしかない。何しろわたしは何もしない人まで糾弾したりはしませんので。ただ売られた喧嘩は買います。決着がつくまで遣ります。卑怯な人間は見逃すつもりはないのです。ただ自分という人間を分かっていないおバカな人間とは話(議論)をしません。共馬鹿にはなりたくないので。しかしこういう人間に限って卑怯な手を使うものでその際は鉄槌を下すしか方法はありません。そしてその方法はいつも相手の意表を突き尚かつ過激です。二度と悪さをしないようにするにはそうするしかありません。
この様に自分でも困った性癖だと思っています。ですがこれは一生直らないだろうと思います。何故ならば、わたしにとってこれらのことは無辜の人々の存在と生命が人の悪意によって危機に晒されるという根源的な問題に根ざした重要な事柄であるだけに、人の不正行為や心の奥に潜む欲望や悪意を看過できないのです。
こんな時のわたしには傍観者さえも悪に見える時があります。それは過去に於いて実際に傍観者が弱い立場の人間を見殺しにしたのを幾度も見て来たからです。
これはただ単に恐いから、巻き込まれたくないから、見て見ぬ振りをするという様な単純な話ではありません。それら傍観者の心の中に「自分だけ良ければ他人のことなどどうでもいい」といった心情や「人の不幸を楽しむ」感情が潜んでいるからです。影に隠れて悪さをしたり人の不幸を楽しむような人たちが、一番質が悪いことをわたしは知っているのです。それは犯人や悪人そのものよりも場合によっては質が悪い。ソネブロでも過去も今もそういう連中が悪さを繰り返している。ただ多くの人はそれを知らないだけです。
直接危害を加えてくるものは撃退することも可能です。だが、こうした人々は罪の意識もない。その行為によって、被害を受けた者が心を痛めることもあるということをこの人達は知らない。知ろうともしない。だから(知らず知らずのうちかは知りませんが)人を傷つけても、のほほんとしていられる。これを無意識の悪というのです。とにかく自分達だけが良ければ人のことなどどうでも良い、という心が胸の内にあるのであればその人の心に悪が在るのは明白です。胸に手を当てればそれは分かる筈です。分かっているのにそれをやる。愚かです。
そもそも何故わたしがそうした悪意ある行為を見過ごせないかと云えば、わたしが11歳から12歳の二年間に経験した『ある出来事』がそうさせている訳です。
逆に云えば、それがあったればこそ今のわたしがある訳です。
もしそこでわたしを取り巻く環境や、その環境に押し潰されそうになったあの日の自分に負けてしまっていたら、たぶんわたしという存在は今ここになかったでしょう。言っている事の意味はお分かりですね。
だから今のわたしを形作れたのはその出来事があったればこそなのです。ですから、人の悪意や不正は絶対に許せないのです。
欺瞞も同様です。そして見て見ぬ振りも。意識無意識を問わず悪意は許さない。どの様な理由や訳があるにせよ人を欺すような行為も許さない。人を裏切る行為も許さない。そうして今まで生きて来たのです。
もちろんそれで得したことなど一度もありません。しかし損得にわたしは価値など見出してはいないので、それはどうでも良いことだと思っています。アンフェアや不条理を絶対に許してはならない。それでは世の中は何ひとつ良くならない。そんなことのために犠牲になる人があってはならない。そうわたしは考えています。
現実にも、悪いことは悪いと云える社会でないと、それに押し潰される人は大勢います。だからこそ人の悪しき行いを見過ごすことはあってはならないと考えているのです。
「悪いことをした人にも良いところはあるんだから許してあげたら」などという発想はわたしにはありません。悪いことをしたら罪は必ず償うべきなのです。「罪を憎んで人を憎まず」などいうのは詭弁だと思います。何故なら罪を犯した人物とその行為は、物理的にも心情的にも不可分だからです。どう転んでも人と罪を分離することなど不可能なのです。だからその人が罪を償わない限り罪は永遠に清算されません。
ところで、もしそれが法的に罪となる事柄ならば、法でその人が裁かれ刑期を終えればその人の罪はなくなります。しかしそうでない場合はいつまで経っても罪はなくならないのです。そうでない場合とは罪人が何らかの理由によって法によって裁かれない場合と、現行法には触れないが、道義的なものも含めてあらゆる意味でそこに罪が存在する場合です。その定義は、被害者がいるという事実があればそこには必ず加害者がいて罪も存在する、ということです。
そして司法で裁かれない罪人の方が現実には圧倒的に多い。この現状は被害者になってみなければ絶対に分からない事だと思います。頭で分かっていたって現実に自身が被害に遭わなければ本当のことは分からないのです。現実には加害者だって同じなのです。しかし加害者は罪に問われなければ自分を正当化しいつしか被害者のことも忘れてしまう。道義的にいって本来はそんなことはあってはならないのに現実にはそんなことが罷り通る。
しかし被害者のことも考えてみて下さい。罪を問われなかったり償っていない加害者は平気かも知れません。知らぬ存ぜぬで済ませられますから。しかし被害者は被害を受けた時点でその人の時計は止まったままで、その痛手をいつまでも忘れられないし背負っていかなければならない。これではまるで被害者が罪を背負っているようなものではないですか。そして現実にはそういう人たちは沢山いるのです。罪は加害者にあるのに、被害者はその罪の所為でずっと苦しまなければならない。そんな馬鹿な話はない。わたしはそう思っています。
わたしの場合は相手(一人や二人ではありません)から謝罪を受けましたが時期は完全に失していました。後で謝られても、しかも本心からじゃない上端だけの謝罪じゃそれで心が安まる訳ではなかったですね。赦しましたが心の中に納得できない気持ちは残りました。この人達は喉元過ぎれば自分の罪も帳消しになったと勘違いして、いずれ忘れてしまうのだろうなぁと思ったものです。
赤字部分2018.04.20.20:38:25加筆
という訳で一度わたしが『経験』したことを書いてみようと思っています。だが、余りにも凄まじい内容なので恐らくブログで公開することはないと思います。
わたしはあの時わずか12歳で自分の身に降りかかった理不尽な仕打ちを撥ね除け、その根本的問題を誰の力も借りず自らの手で解決しようと試みました。しかし自分ひとりではやはり完遂できなかった。しかしその時、わたしの話を信じそれに力を貸してくれた人々がいました。だからいま私がここにいる訳です。そのことをわたしは一生忘れません。
上記で述べた様にこの事をブログでは公開しません。ですが「作品」としていずれ世に出したいと思います。
ではでは皆様ごきげんよう。