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老子 その言外の意味 [こころ・その深遠なるもの]

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わたしは以前ある方からこの様なコメントを頂いた。

 いわく、老子は
”知る者は言わず言う者は知らず”
と言いましたがU3だけは別格の様ですね。

・・・わたしはこのコメントを頂いた方に実は大変失礼な反論をしてしまったのだが、それはそのコメントの裏に隠されたこの方の真意を明白に感じ取ってしまったからであった。

 つまり・・

 「あなただとて本当は
   例外でも別格でもないのですよ」

 という言外の意味であった。

 その時、わたしより一廻り以上も年配の方に対して大変失礼な反論をしてしまったと反省しているがわたしは間違った事をしたとは今でも思っていない。ただ人生の先達に対して礼を失してしまった事は悔やんでいる。ではなぜそんな思いまでして反論したのかと云えば「老子」のこの言葉を使う事自体に強い反発を覚えたからに他ならない。何故そんな事になってしまったのかと云えば、この言葉をこのコメントの少し前にブログに載せたある若者に言い様のない不快感を覚えた事と、この方のコメントが重なって過剰に反応してしまった事が原因だった。その時わたしは腹の中でこう思っていたのだ。

 「実行出来ない事を口に出してはいけないね」

 その若者はさも悟りきったかの様にこの言葉をブログに載せていたが、わたしは自分が実行や実践出来ない事を口にするのは甚だ性に合わない。たとえ顔や実体が見えないブログ上であったとしてもだ。そんな経緯があってその若者とは何ら関係のないこの先達のコメントに過剰に反応してしまったのだった。

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 ここで老子などの中国の思想についてわたしなりの解釈をしておこう。解釈をしておこうなどと書いているからには、いつもの様にと云おうか当然の事ながら幾冊も書籍を読み、考え、けして受け売りや付け焼き刃ではない自論を述べている積もりだ。

 そもそも中国には二大思想というものがあって、その一つが孔子や孟子を祖とする「儒教」であって、もう一つがその対極にある老子と荘子を祖とする「道教」である。

 わたしは思うのだが孔子の遺した言葉は直截簡明であり、老子はそれに比べて逆説的であり言葉を捻っていている様に思われる。孔子の言葉は自分の意志さえ強固であれば実行可能だが、老子の教えはその平易で心地よい文章とは裏腹にその多くが実践しがたいものばかりで曖昧模糊としている様に思われる。孔子の説く「仁」、「義」、「礼」、「智」は分かりやすいが老子の説くものはまずその第一義である「道(タオ)」からして極めて分かりにくい概念であり、尚かつ分かったとしても実社会での実践は極めて困難に思われる。隠遁者や世捨て人ならいざ知らずごくフツーの生活を送っている者が老子の話など取り上げても何ら説得力もなければ共感を得る事もないだろう。そもそも老子の言葉はかなり捻っているので逆説的意味を持つ事も多く様々な解釈が成り立ったりするのである。だから言葉を表面上なぞってもその本当の意味を理解するのはなかなかに難しいとわたしは思う。

 それに比べて孔子の説く言葉は明白だ。もっとも「論語」は孔子自身が著したものではなくて孔子の弟子達やその後継者達が孔子の言行を書き記したものであって、ありのままの孔子の言葉であるかどうかは実は分からない。「論語」が「子曰く・・・」で始まる事でもそれは分かる。しかし孔子そのものは歴史上実在していた事が明らかであって、「論語」そのものは実態に近いものだと云えるだろうし、孔子が直接語ったものでないとしてもその価値は些かも減じる事はない。一方の老子は実はその存在自体が明確でない。つまり歴史上本当にいたかどうかさえ疑問視されていて未だに老子研究者の間でも統一した見解はない。

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 性格からして云わずもがなわたしは直截的で明快な孔子の言葉が好きだが「癒し」を求めている現代人には(その意味を知ってか知らずか)この老子の言葉が広く受け入れられているのでなかろうか。

 わたしは孔子の教えとして有名な言葉である「義を見て為さざるは勇なきなり」または「義を見てせざるは勇なきなり」と云って来たが過去に於いてその反響があまり芳しくないのは、見る者がまるで叱られている様な厳しさをその言葉とわたし自身の言動に感じてしまうからであろう。それはそうだろう「正しいと分かっていてそれをしないのはあなたに勇気がないからだ」と云われて面白かろう筈はないし内心忸怩(じくじ)たる思いが生じるのだから。そう主張するわたしを敬遠したくなるのは当然といえば当然である。儒教とはそもそも本質的にその様な父性的な厳しさを持つ。

 それに対して老子の「敢えて主とならず客となる」という言葉は「自分から進んで行動を起こすのではなく言動は控えておとなしくしていた方が良い」という事でありもう一歩踏み込んで解釈すれば「人とは争わない事が大事なのだ」と教えているのである。この言葉は母性的だから社会全体が母系社会であり、その中に育った日本人には共感を覚えるだろうし安らぎすら感じる人も多いだろう。つまり儒教と道教では考え方がまったく逆だが現代の日本人にどちらが受け入れられ易いかと云ったら後者つまり老子の道教に落ち着く様だ。

 しかし「人とは争うな」という老子の教えが広まる事で世の中が旨く治まるのかと云えばけしてそうではない様に思える。儒教は実践を伴わなければならないが、道教は自己を中心に置き心の持ちようを指し示す教えであり必ずしも表だった実践や実行を伴わないからだ。それに老子の教えは甚だ実践は困難だ。

 実行できない「教え」が「成果」を生む事はあり得ない。

 世の中で今も繰り返される暴力や嫌がらせやいじめといった悪意に満ちた行為を、老子の教えで正せるのかといえばわたしは「否」と答えるしかない。やはり、

「義を見て為さざるは勇なきなり」

 でなければ世の中は正せないだろう。

 自分が傷ついたり人を傷つけてしまう事を恐れていてはけして本当の平和は訪れない。心の平穏や安らぎというものは己が無傷ではけして得られないだろうし、避けて通ってばかりではその人間的成長もないだろう。心ならずも他人を傷つけてしまったり、自分自身がその行動によって傷ついて初めて自他の痛みが分かるのである。観念だけでは実体は分からない。実践を伴わずに頭の中でいくら思い描いても真の理解には程遠いものだ。

人生に於いては失敗しなければ得る事が出来ないものは多い。

 この世で無意味なものなどない。善だろうが悪だろうが存在する事の意味も意義もある。そして経験しなければその本当の意味も本質も理解できないだろう。

 『生きている』という実感と充実感を得たいならば、いま目の前に存在する事物に正対してけして目を逸らしたり逃げ出したりしない事だ。そしてそれは取りも直さず自分自身の弱い心との戦いであり葛藤である。充実感はその克服から生まれる。

 そう思う今日この頃です。

 あはは、久々に語ってしまった(笑)

 U3復活か!(=^_^=)

 最後に「知者不言 言者不知(知る者は言わず言う者は知らず)」のわたしなりの解釈を述べて置きたい。「言葉を発した事の結果を知る(予想できる)者は言葉を控えるが、自分が発した言葉がどの様な結果を生むかを知らない者程安易に言葉を発してしまう」つまり、けして物事を知っているとか知識があるとかその逆である無知だとか、言葉の寡少、過多、寡黙、饒舌を論じている訳ではない。「どんな事があっても矢面に立つな、常に二番手三番手で居よ」と説く老子らしい言葉ではある。

 ではでは皆様また会う日までごきげんよう!

 


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コメント 16

nyankome

復活おめでとうございます。
>自分自身の弱い心との戦い
仕事の中で日々実感しています。
by nyankome (2010-02-20 09:07) 

くまら

何か、最近の私の中に
染み込んでくる言葉達・・・
by くまら (2010-02-20 09:17) 

みそぎ。

>充実感はその克服から生まれる

私もこの先、
克服することが出来るでしょうか。
by みそぎ。 (2010-02-20 13:06) 

ayumu

堪能いたしました。信念を表すことは勇気が要りますが、言うこと、議論することが大事かと思いました♭
by ayumu (2010-02-20 14:18) 

nano

コメントレスです
世界各地で社会正義を訴える行事を実施
今年、ILO駐日事務所と世界銀行東京開発ラーニングセンターは
「グリーン・ジョブと世界経済危機」と題する共同セミナーを開催
・・・・との事です
犯罪などのみに止まらず、生産者側のモラルハザードも
深刻な問題ですね?
by nano (2010-02-20 14:50) 

七色音

ある意味多かれ少なかれ、毎日が戦いでございます。
負け戦続きにならないように、気を引き締めようとっ♪(笑)
by 七色音 (2010-02-20 16:55) 

SilverMac

知っていることも少ないですが、生半可なことは言わないが一番良いようですね。
by SilverMac (2010-02-20 18:18) 

ひろたん

身にしめる言葉ですよね^^;
by ひろたん (2010-02-20 23:20) 

なかちゃん

いろんな事を論ずる前に、自分の行動を省みなければならない…なんて、
格好の良いことをいつも言っていますが、実際はどうなんだろう?
ただ、言うからには揚足を取られることのないように…と、心掛けてはいますが。
言葉を発するときは、それを発した後に起こる全てのことに責任を持つように
したいです ^^;

by なかちゃん (2010-02-20 23:58) 

枝動

二つの教えを見る時、私にも儒教の方が合っています。
「義を見て・・・・・」からの件は、その通りだとよく思うところです。
大義のない喧嘩は、出来ないししてはならない。大義有るなら、果敢に突破すべし、と思いますね。
U3節に知るものは、どうも10歳ぐらいまでの幼児期に、どんな経験をして過ごしてきたかによる様な気がします。
「知者不言」は、「自らに大義無く、経験値の無い者は、言わない方が利口ですよ」と解釈してしまいます。
by 枝動 (2010-02-21 00:03) 

gyaro

ノってきましたね~
by gyaro (2010-02-21 00:32) 

pandan

復活ですか〜お久しぶりです〜
by pandan (2010-02-21 07:50) 

たいへー

らしくていいですよ。^^
by たいへー (2010-02-21 10:44) 

吉之輔

こんばんは、じっくりと読ませて頂きました。凄く良い勉強になりました。
我々の年配のものは、「義を見て為さざるは勇なきなり」でしょうね。
またその様に教えられてきました。今日は有り難う御座いました。
by 吉之輔 (2010-02-21 18:38) 

じぃじぃ

こんばんは、
来訪ありがとうございます。(^▽^)/
復活をお祝いします。
儒教も道教もかなり宗教的な要素がありますし、
行動まで考えるとかなり複雑ですね。
いずれにせよ、実行とか行動がきわめて重要になりますね。
by じぃじぃ (2010-02-22 00:58) 

モモパパ

間違いから学ぶ事は多い私です^^;
でも失敗が多いにもかかわらず、同じ様な失敗を又します><
by モモパパ (2010-02-22 22:53) 

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