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誹謗中傷撃退法 上之巻 [わたしのブログには毒がある(笑)]

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<律宗なので唐招提寺ではなく唐招提律寺なのですね '08.01.13.15:31> 

「最近笑っていないジブンにふと気づいた」 

 むかしはあんなに毎日の様に笑っていたのに最近は笑った記憶がない事に愕然とする。心の余裕がなくなっているのだろうか。う~ん、生き方を変えなければならないかも。大げさに云えば人生そのものを。

後悔しない人生を送る為にも生活の中に笑いを取り戻したい。

ボクとキミの笑顔を取り戻したい。

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<'08.05.25.10:06 裏磐梯 檜原湖周遊道路にて>

形有るものは何れ壊れ失われるが
形のないものはけして失われる事はない。

しばし忘れ去られたり少しく薄れる事はあっても
けして失われたり無くなってしまう訳ではない。
ただ人はその存在に気づかないだけなのだ。

人が失われてしまった愛や限りない憎しみに
いつまでもいつまでも心奪われ捉われるのは
それが心の奥底に感情の伴った記憶として在り続ける故なのだ。 

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<国立科学博物館 筑波植物園にて '09.05.06.14:00> 

 笑いは感情のひとつである。笑う事だけでなく愛や喜びや物事を楽しむ感情が豊かである事はその人の心が豊かである事を指し示している。そして誰もそれらの感情が豊かである事を悪い事だとは考えていない。しかし怒りや怨みや憎しみといった感情が心の大半を占めている人がいるとしたら、そしてそれに心囚われているとしたら、はたして人はその者を指して「感情が豊かな人」だと云うだろうか・・・。

 人の心の大半が感情で占められている事に誰しも異論はないだろう。だが、その感情なるものをコントロールする事は殊のほか難しい。人は理性をもって感情を制御しよう試みるのだがなかなか感情を抑えられないようだ。身の廻りを見ても感情を抑えられないが故に現実に様々な問題や軋轢を引き起こしている様に思われる。それはわたしも貴方もけして例外ではない。では、なぜ人は理性で感情を抑えられないのかといえば、それは理性も心の中に存在する幾多の感情の中のひとつに過ぎないからだとわたしは考えている。というより妄想かも知れないとわたしは思っている。

 旺文社「国語辞典」第十版に依れば、【理性】とは、本能や一時期の衝動に左右されず、物事の道理に従って論理的に考える心の働き。しばしば、感性・感情と対比される例文として「感情的になって理性を忘れる」とある。・・・この説明文と解釈を以て正解かと云えば釈然としないものが残る。何故なら現実に見る様々な出来事は少しも理性というものが働いた形跡がないからである。大袈裟に云えば人類の歴史の何処を見ても理性の存在を感じられない。もし理性というものが存在しそれが有効に働いていれば「戦争」など起きなかっただろう。とすれば理性とは概念としては理解できるが現実には存在しないと考えるべきではないか。存在しない事を信じるならそれはもはやそれは妄想・妄信でしかない。

 現実の出来事はそれを証明している様に思われる。理性というものが現実には存在しないか機能しないからこそ本能や衝動を押さえられないし、人類は物事の道理もわきまえられないし、論理的な考え方も出来ないのだ。それが証拠に「道理って何、論理的って具体的にどういう事?」と聞かれて、いったい何人の人がその場でその問いに答えられるだろうか。誰一人万人が納得できる答えを返してくれるとは思われない。それが現実である。

 「理性」が存在しない、働かないというその点では殆どの人類は他の動物と何ら変わりがない。いや、他の動物よりもむしろ劣るのではないか。何故ならば、人は感情の赴くままに人を攻撃したり痛めつけたり殺戮する事が平気で出来る動物だからだ。わたしは人間の醜さを見るにつけ人間はいくらでも残酷になれる動物だと感じるのである。動物は自分の生存の為に他の動物を攻撃したり殺す事はあっても無闇に傷つけたり虐殺したりはしない。自分よりも弱いと思う者を虐めたり、自分よりも豊かであったり秀でていると思う者を貶めたり恨んだりもしないだろう。

 そうは云ってもわたしは感情を否定したりはしない。むしろ人が人たる所以(ゆえん)は感情が豊かだという事ではなかろうかと思っている。他の動物にももちろん感情はあるのだろうが人間ほど発達している訳ではなく、その感情は全て本能と密接に結びついていると考えられる。実は人間の感情のほとんども本能に結びついているのだが、人間の場合は他の動物と違ってあまりにも感情の種類と量が多すぎ、且つ複雑な過程を経て表現されるので、表に現れた感情がどの様な原因と理由によってもたらされたものなのか本人以外は知る由もない。わたし達がもしその場に居合わせたとしたら、状況から判断して感情によって発せられたその言葉の真意を少しは推し量る事ができるかも知れない。しかし本当の理由は当人が嘘偽りなくすべてを明らかにでもしない限り、はたまた超能力者でもない限り誰も分りはしないだろう。

 わたしが何を云いたいのかといえば、表に現れた感情つまり感情表現がその人の心の中をそのまま映しているとは限らないという事である。何らかの思惑があって演技をしているのかも知れないし、考えがあって心の中に在るものと正反対の事を云っているかも知れないのだ。心裏腹とはよく聞く言葉だ。

 卑近な例としてわたしの場合を挙げてみよう。わたしは時折怒りの文章などをブログにUPしたりするが、それは表向きのポーズであり実は皆が思う程には怒っていなし極めて冷静である。一見激しい語調で書かれた文章に見えるかも知れないがそれは感情に任せて書いた文章ではない。思い付きで書いたものでもないし、頭の中が整理されないままで表に出て来たものでもない。文章は数回の推敲を重ねた練られたものだ。わたしが感情に任せて文章を公表する事はあり得ないし、もし感情が収まらない時はわたしは人様に向けて記事を公表したりはしないのだ。

 しかし初めからそうだった訳ではない。経験を重ねてそうなったのだ。しかしこれはわたしに限った事ではない。誰しも多かれ少なかれ本心は心の奥底に留め置いて表向きに脚色された表現をしてるのではないかと思われる。この様な事は「生の感情表現は見苦しい」という経験に基づく処世術のひとつであって誰でもそうしている事だと思えるのである。わたしが上記の場合大切にしているのは「わたしはその事に対して怒っているのだ」というメッセージを冷静に伝える事だけである。

 実は楽しい記事を書いている時(最近はまったく書いていないが)も、必ずしも心楽しく書いている訳ではない。何しろわたしは手放しで喜んだり腹の底から笑った事など一度もないのである。だからといってユーモアのセンスに欠けている訳でもなく笑いの本質が分からない人間でもない。むしろ人を笑わせるコツを身につけている方だと思っている。ブログを始めた当初は更新する度にそんな記事ばかりだった様に思うし、また随分と人を笑わせても来た。

 だがいつかしら、真面目なテーマや重いテーマを中心に扱うブログになってしまった。それはソネブロ内で起こったある出来事に起因してそうなってしまった訳だが、それは取りも直さずわたしの本質が笑いや楽しみや喜びにあるのではなく、「人という生き物が何であるのか」という問いに正面から向き合う事に在るのだと思う。ブログの楽しみ方は人それぞれいろいろあるだろうし考え方もいろいろあるだろう。しかし今のわたしには「人はどうあるべきか」という問いに自問自答する事以外は考えられないのだ。通勤時間往復三時間弱、実就労十二時間、睡眠五時間という仕事に明け暮れる多忙で過酷な毎日を送りながらいつもそんな事を考えている。

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<幕張海浜公園近くにて '09.05.06.11:40> 

 『人間は感情の動物である』とはよく云われる事である。しかし人間以外の動物にも感情はあるのだ。ただその感情表現はストレートであり、なおかつすべて本能に結びついている点が人間とは異なっている。だからといって人間以外の動物の感情が人より劣ったものかといえばそうでは無いように思われる。実際のところ大阪の育児放棄致死事件や実の親による幼児虐待事件などの報道を見る限りにおいては、犬猫猿といった動物の親子間の愛情は、それらの心すさんだ又は心貧しい人間より余程マシであり、むしろ人間より豊かでさえあると謂わねばならない。

 様々な争いや揉め事や事件を見聞きするにつけ、感情がストレートに表わされないという人間の複雑さが様々な悲劇を生じさせているのではないかと思うこと暫(しば)しである。他の動物の様に感情表現がストレートであればこれほど多くの問題も生じなかったであろう。人の感情は本能と密接に関わっていないが為に歪曲され思いもつかない形で現れる。それは人の性格や思考パターン(考え方)や環境に左右され常に揺れ動いている。この様に、人間の感情がストレートに表わされないのであれば喩えとしての「手放しの喜びよう」などという表現は小説や物語の世界だけの話であって実際には有り得ない事なのかもしれない。

 感情は「喜怒哀楽」で表わされる。それ以外の感情として人は「愛情」を感情の代表的なものの一つとして挙げる事が多いのではなかろうか。しかし、愛情は感情の中では崇高かもしれないが「強固な感情」という意味では甚だ心もとない感情なのではあるまいか。愛には親子愛や家族愛、博愛などあるけれど、こと恋愛感情に関しては特にその傾向が顕著である。冒頭に挙げた様に、この様な感情は無くなる事もないし消え去る事もないけれど継続性はない様に思われる。現実に「ゆるぎない愛」なんて見た事もないし、した事もない(笑)

 ここらあたりで本題にそろそろ入ろうと思う。 

 愛とか喜ぶとか笑うといった感情をプラスの感情とすれば、泣くとか怒るとか人を恨むといった感情はマイナスの感情といえるだろう。そして人の心に占める感情はマイナスの感情の方がプラスの感情を凌駕している様に思われる。愛の中でも特に男女間の恋愛感情は一時的には気持ちを高揚させ豊かにするが長くは続かないのが常だ。熱しやすく冷めやすいのだ。それは愛情ばかりではなく笑いや喜びも同様だ。もし続くとしてもそれはきわめて間歇的であり常態ではあり得ないだろう。それに比べ怒りや怨恨といった感情は果てしがない。生命が尽きるかそれによって身を滅ぼしでもしない限り沸々といつまでも燻(くすぶ)り続ける厄介な感情といえるのではないだろうか。

 そして、愛と憎しみは表裏一体である。だから愛はいつでも憎しみに変わり得る。現に人は毎日の様にそれが原因で争いや事件を起こしているではないか。人間の感情はこの様に脆(もろ)く移ろいやすい性質を持つ。感情のもう一つの性質としてプラスからマイナスへ変極する事はあってもその逆はあり得ないという事である。憎しみから愛は生まれないのである。失った愛が二度と戻る事もないのである。人はその事を知りながら、分かっていながら、いつまでも失った愛を憂い、人をいつまでも憎しみ呪うのである。望みは叶わないと分かっているのに・・・。

 ここでマイナスの感情について話を掘り下げてみよう。

 わたしは過去においてストーカー被害に遭った事もあるし、まともとは思えない人物から逆恨みをされた事もある。そしてそれは現在進行形でもある。そこから学んだ事は多いが、けして楽しい体験でない事はご理解いただけるものと思う。

 わたしが経験したのは誹謗中傷であった。わたしの場合は相手が攻撃して来るのは想定内であったが、その手口についてはわたしの想定外であった。何故ならわたしはそんな卑劣な感情を一度も抱(いだ)いた事はないし持ち合わせては居なかったので、これ程多くの誹謗中傷の手口があろうとは思いもしなかったからだ。

 或る日、些かも交流のないブログの誹謗中傷合戦からの飛び火で自分のブログを汚(けが)された。その時点では何でなんら関係のないわたしのブログに不快なコメントを何度も何度も貼り付けたのか分らなかった。しかしわたしにはその様な行為自体が許せなかった。そしてその相手を探し出してそれを糺した。そこからわたしへの誹謗中傷は始まったのだった。

 しかしそれは特殊なケースなどではなく誰にでも起こり得る事であった。ほんの些細な事から相手は貴方を恨み執拗に付きまとう。そして尋常ではない遣り口で貴方を貶めようと画策する。それは無言電話だったり、風評被害だったり、ストーカーといった付き纏(まと)いだったりと様々な形を取るが、貴方がそれに辟易してギブアップするか相手の目の届かないところに消え去らない限りけして止む事はないだろう。現代とはそういう社会なのだ。

 現実にわたしはこの事以来今でも執拗に付き纏われているし虎視耽々と反撃の機会を窺われている。しかも相手は三人以上いる。相手がまともではないのは初めから分っていたがその常軌を逸した執拗さとその手口はまともではないし異常である。それはどの様な事から始まったのかといえば以下の通りである。

<つづく>


 

「推理」は「真実」に至るもっとも手堅く確実な方法である。
表に現れ出(い)でた「事実」を一つ一つ積み重ね 結びつけ
そして細かに「分析」し 「方向性」をそこから見いだし
更に「推理」を重ね 遂に「真実」に至る。

しかしそれだけでは 得られた「結論」は「推測」の域を出ない。
結論に基づきそれを「実証」してこそ初めてそれは真実となり得る。
「真実」とは本来そういうものを謂う。

・・・これは次回の予告である。

  

来月はもう九月だというのにまだまだ暑い日が続いています。

呉々も体調を崩さぬ様、けして無理をなさらず、ご自愛下さいませ。

ではでは皆様ごきげんよう。

   


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吟遊詩人41

愛は何歳になっても・・・♪
by 吟遊詩人41 (2010-08-30 21:16) 

どぼちょんぱぱ

心の中にあるものと、それを表現することに違いがあるのは
確かにありますね。
Blogに書く内容を考えていると整理されてくることも多いです。
by どぼちょんぱぱ (2010-08-30 22:10) 

たいへー

今は子供がいるから笑いがあるが、
夫婦2人きりになった時、どうなるだろうか・・・^^;
by たいへー (2010-08-30 22:44) 

枝動

動物のストレートな正直さを見習って、日々生きております。
by 枝動 (2010-08-30 23:03) 

楓〇

毎日、笑って過ごせたらどんなに良いだろうと
思います。人間だからいろいろあるけど
なるべく、笑ってたいですよね。
感情というものは複雑です。
by 楓〇 (2010-08-30 23:05) 

わーこ

Uさんも まだとりつかれているのですね。。
無駄な努力はやめればいいのにね(苦笑)
その力を 違う方向に向けたら
どんなにすごい力を発揮できるのかと思いますが 
無理だからこそ 今に至るのでしょう
あの一件があって 
いろいろと勉強させてもらいました

by わーこ (2010-08-31 00:01) 

mochamama

笑って暮らすと寿命が延びる・・・らしいです。
笑う門には福もやってくるのでなるべく笑って暮らしたいと思いますがそうはいきませんね。

陛下の生き生きとした笑顔にnice!です。
by mochamama (2010-08-31 01:18) 

みそぎ。

久々の陛下のア~~~ップ!!!
素敵です!!

喜怒哀楽が交互に来たら良いのに・・・
いつも偏ってばかりです。
by みそぎ。 (2010-08-31 11:17) 

aranjues

私も最近心から笑ったという事がないような気がします。。
by aranjues (2010-08-31 12:34) 

青い鳥

無理にでも笑顔をつくれば、脳内ホルモンが分泌されるとか。
心の底から笑えなくても、時には笑顔を作るように心がけたいと思っています。
by 青い鳥 (2010-08-31 20:08) 

ecco

お知らせにうかがいました。
ぱせり天国へ行っちゃいました。。
2年前くらいから
体調を崩してなんとかここまで頑張ってきたけれど
今年の夏は過酷だったのでしょうか。

ほんとうに
ぱせりには楽しませてもらいました。
ぱせりがいたおかげで人生がほんと楽しくなりました。

しばらくは
途方に暮れてしまいます。
by ecco (2010-08-31 20:59) 

nyankome

>通勤時間往復三時間弱、実就労十二時間、睡眠五時間
本当に大変な日々を送っていらっしゃるのですね。
暑さもとどまるところを知りません。
どうぞご自愛下さい。
by nyankome (2010-08-31 23:13) 

くまら

最近、腹の底から笑って無い事に
気付きました。
by くまら (2010-09-02 08:43) 

nyan

笑いの本質か・・・
考えた事もないわん。。。
by nyan (2010-09-02 14:02) 

bamboosora

僕は息子のおかげで笑顔を絶やすことがないので、
息子には感謝してます。
by bamboosora (2010-09-02 14:43) 

袋田の住職

中ノ巻上巻よりさかのぼってきました。

by 袋田の住職 (2010-09-06 06:53) 

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