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約束の地 [U3の独白]

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<世界遺産:奈良 唐招提寺 '10.03.29.12:59>

 この写真を見て思ったのだが「招」の字は略字だろうか。それとも現代中国語なのか。何故前回は気づかなかったのだろう。

戦争が終わって六十五回目の夏が来た。
亡くなられた人々の魂は家族の元に辿り着けただろうか。
お盆は先祖や故人へ思いを馳せる大切な日だ。

唐突だが奈良は日本人の心のふるさとだと思う。
もしかしたら霊魂にとってもそうなのかも知れないと思う事がある。
わたしは二年前の冬、奈良を訪れ帰りしなに奈良に約束した。
「また近いうちに来る」と・・・。
それは期せずして同じ年に、そして幾度も実現されたが
いつも慌ただしく余裕のない訪問であった。
それから二年。・・・月日は瞬く間に過ぎてしまった。

 守らなければならないものは数々あれど、何を置いても守らなければならないものは「約束」である。人は一人では生きていけない動物である。例えあなたが一匹狼だと自負していても
孤狼(ころう)の誇りだけでは生存は危(あや)うく生半(なまなか)の事では生きていけない。

 他人様と接し交わる事は取りも直さずその社会のルールを守る事を暗黙の内に了解する事である。その約束事を破ればその社会から追放されるか抹殺されるかのどちらかだ。しかし、群れに残る事が良い事なのか悪い事なのかわたしは知らない。何故ならわたしは自らの意志でそこから飛び出した孤狼だから。

 現実はたとえ孤狼となろうとも孤立する事もなく孤独でもなく不安に陥る事もない。群れにいれば安心でそこから離れるのは不安だと考えるのは杞憂(きゆう)に過ぎない。

 百歳以上の所在不明者が問題になっている昨今、「無縁化社会」がクローズアップされている。しかし、自分の棲む社会や組織から飛び出そうとも、あるいは放り出されようとも
自分自身の意志によって社会と繋がるチャンネルを持ち続ける限り、無縁化社会とは無縁である。
・・・取り敢えずは。

 無縁化社会とは現代の社会が作り出した歪み(「ひずみ」あるいは「ゆがみ」)である。そして無縁となるか否かは群れに属する属さないには因(よ)らないだろう。どの様な境遇にあろうとも「約束」された未来などもはや何処(どこ)にもない事を人は知るべきなのだ。

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<西大寺境内にて '10.03.29.11:51> 

 大切な家族とか個人の名誉とか守るべきものは色々あるけれど、それよりもまず先に守るべきものは「約束」である様だ。わたしは仕事では自分の事情や都合で約束を破った事は一度としてない。が、結果として約束を違(たが)える事になった事もわたしの人生の中で何度かあるのも事実だ。そしてその所為で制裁を受けた事もある。ある時はそれに従い、またある時はそれに抗いながら今日まで生きて来た。
 一方、私事では悪気はないのだが随分と約束を反故(ほご)にして来た気がする。その度に相手の信用を失って来たのだろうが幸か不幸か大きなものを失わずに済んだ。それはたぶん
わたしに関わった人達の多くが寛容であった所為(せい)だろう。まあ、怒ったり呆れたりして離れていった人もいただろうがそれは致し方ないと諦めるしかない。わたしは案外ずぼらである。
 この様に今までは大過なく過ごして来た様に思えるが、これまでがそうであったからと云ってこれからもそうであるとは限らない。人生にこれとこれは必ず回避できますなどという保証書は存在しない。その社会の約束を違えた者は何れその社会から何らかの報復または制裁を受ける事になる。群れを飛び出した者はその事をよく知る必要がある。それを分かった上で自らの意志でその世界を飛び出した以上、因果応報、その結果は甘んじて受けなければならない。それが嫌なら群れの中に留まる事だ。外敵から守る為という名目で柵の中に閉じこめられた多くの子羊達の様に、誰かに守られて、そして自らが安全だと信じて留まったその社会の生け贄となる日が、いつか、誰かの身に、確実に、訪れる事も知らずに。

 世の中に安穏(あんのん)などという言葉も安全だという保証も存在しない。人々は自分だけは大丈夫だという何の根拠もない幻影にもたれ掛かって現実から目を背けてただ毎日を生きているだけだ。群れていようと孤高であろうと禍(わざわい)は必ず訪れる。一人で生きるよりも群れていればその確率は低くなるだろうがそれはあくまで確率論だけの話であって禍を免れる何の保証にもならない。例えていうならば、群れに残れば禍に巻き込まれる確率が1%だったとしても、その1%に該当した者にとっては確率100%と同じ事である。柵の中で守られていようが荒野にその身を晒(さら)した孤狼であろうが結局のところ同じ事なのだ。ちなみに孤狼が禍に遭遇する確率は50%だ。しかしながら群れに残った人々も実は確率50%なのだЖ(-人-)Ж§

 世の中はどちらの側に居ようと常に不条理で不可測である。

 ところで政治の世界こそ約束は大事だと思うのだが、どうも菅直人という人物はそうは考えていないらしい。わたしが思うに菅内閣は昨年の衆院選マニフェストを軽視している様に思えてならない。鳩山元首相から政権を引き継いだ菅民主党は、当然その公約を引き継がなければならない筈だが菅首相を筆頭に各大臣や官房長官は平気で「見直し」という名目で公約の撤回を仄めかしている。
 実は菅直人などはまだ単純明快だが仙谷由人官房長官は一筋縄ではいかない。そして菅直人は仙谷由人の傀儡である気がしてならない。「過去の朝鮮半島支配をめぐる首相談話」などはまさにその典型である。こんな事をして何の得があるのだろう。いや、損得でなくとも正義でも正論でもない何を訴えかけたいのか意味不明な首相談話など禍根を残すだけだ。そしてそのシナリオを書いたのは紛れもない仙谷自身である。そればかりではなく仙谷は公約の殆どを反故にしようとしている。
 小鳩時代に小沢を一番怒らせたのは仙谷の言動だという。何故なら仙谷は菅以上に総理大臣になりたがっていたし権勢欲が強い男だったからだ。その小沢を引き摺り下ろそうと画策したのは他ならぬこの仙谷由人であった。菅もそうだが仙谷ほど権勢欲の強い人間はいない様に思える。
 わたしは小沢が嫌いではないと過去に云った事があるが、それは小沢は今の政治家には珍しく私利私欲を優先して動いているのではないと思えるからだ。駄々っ子の様に全てを放り出したり、ぶち壊してしまう男かも知れないが、権力にしがみ付く考えは更々無い様に思えるし、過去の行状からもそれは云えるのではないか。例え小沢の政治手法が旧態依然としていようが、強圧的で強引だと批判されようが、そしてそれが事実だったとしても、少なくとも己自身の私利私欲だけで政治の世界に身を置いているのではない様にわたしには思えるのだ。
 嫌われる小沢像を作り出したのはマスコミである。そしてそれを信じ込んだ人々が多いのもまた事実である。しかし、民主党内でマニフェストを守れと誰よりも唱えたのは他ならぬ小沢一郎である。少なくとも菅や前原や枝野や仙谷にはマニフェストは守るべきだという信念はない。そういう意味で一度国民に約した事はどんな事があっても守らなければならないという小沢は、その場その場で言う事を変える「変節漢(菅)」よりはるかにマシだと云えるだろう。菅直人という男は政権の座から早く降りて、四国巡礼を再開した方が、この権勢欲の強い男の為だけでなく、国民の為にもなる。愚昧な政治はもう懲り懲りだ。


    
 さて、次はお約束のコレ ↓

 <いにしえのみやこ 奈良シリーズ>  

 唐招提寺に前回行ったのは2008年の1月13日の事である。あれから二年以上経っていたのだね。その時も冒頭の世界遺産の石碑(というのだろうか)を同じフレーミングで撮っていた。

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<唐招提寺入口から入り左手にある碑 2008.01.13.15:04> 

 どうだろう。二年の歳月の痕跡はどこかに現れているだろうか。

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<これも二年前に撮られたもの 2008.01.13.15:04>

 南都六宗のひとつ、「律宗」の総本山だったのですね。南都六宗って学校で習ったのを覚えていますか?皆さんは歴史が好きですか?わたしは歴史の成績は中学高校を通じて常に学年のトップだったけれど興味が特にあったのは白鳳天平時代だったね。歴史も戦国時代を過ぎると急につまらなくなる。何故詰まらなくなったのかといえば日本人のダイナミズムが戦国時代を頂点として以後廃れていくばかりであったからだ。

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<天平の甍 鴟尾には避雷針が付いていた '10.03.29.13:01:29>

 わたしは人間の叡智は時代を経ても蓄積されるとは限らないと認識している。人類の知恵や経験など高が知れている。過去の技術で現在は失われてしまったものなど実は沢山あって、それは材料が現在は手に入らないなど様々な理由があるのだけれど、本当の理由は人間の質自体が落ちてしまった事なのではないかと考えている。疫病や戦乱などで常に死と隣り合わせにいた人達と平和の惰眠を貪っている人達とでは人間としての質に差が出てくるのは当然の事である。そしてそれは生きる事への探求心や、物事と取り組む姿勢や真摯な態度の差となって顕在化しない訳がない。

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<端正な本堂を前に佇むと心落ち着く '10.03.29.13:01:29>
 駐車場から土産物屋の前を通って参拝拝観料を払い境内に一歩入る。たったそれだけの事で外の世界とは何故か空気が違う。心が引き締まる思いがする。そんな感じがするのは何もわたしだけではなくて日本人に共通した感覚なのではあるまいか。 

 自分は何故生まれて来たのか、自分は何を為す為に生きているのかという人生最大の問いは、一人一人が悩みのたうち廻って答えを出すものであると思うのだが、それは明日をも知れぬ生命の儚さを自覚する者にしか見えては来ないのだろうか。少なくとも戦国時代に「自分探しの旅」などした者は皆無であったろう。戦乱の中では答えは目の前にあるのだからわざわざ探しに行く必要もないし、一個人など無いに等しい世界で生きていたのだから己の事だけを考え悩む者など居なかった筈だ。

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<鳳凰と桔梗だろうか  '10.03.29.13:02> 

 わたしは思うのだけれど、下克上や骨肉相食み殺戮し合う戦国時代の人間関係が殺伐としたものであったかというと、大多数の庶民と謂われる人達の関係は実はそうではなかったのではないか。一国一城の主はいざ知らず、明日をも知れない混乱の只中で民百姓と云われる者達の人間関係は、今よりももっと濃密で暖かく固い絆で結ばれていた事だろう。そして家族だけでなく集落や村落といった地域社会の人々の絆はもっと強固であった事は間違いがない。何しろ隣近所が戦乱に巻き込まれ自分達だけが無傷である事などあり得なかった時代である。自分や自分達の事だけを考え隣近所の事など知らぬ存ぜぬでは自分達の身が危なかったのである。
 それは取りも直さず己を捨て廻りの人の事を考える事に繋がったに違いない。そして、生命の危うさに伴う絶え間ない精神の緊張と思考の持続は人間としての成長を生まない筈はなかったと考えるのがより自然なのではないか。そう考えると自己のみの事を考える「自分探しの旅」などで答えを見いだせると考えるのは暗愚であると思えるのだ。「自分とは何か」という問いに対する答えは、今自分の足で立っているその場で全身全霊を傾ける事に依ってしか見いだせないのではないかと思える。頭の中だけで作り出した観念などではけして答えを得る事は出来ないだろう。

 今、この時を精一杯生きる事の大切さを現代人は放棄している気がしてならない。

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<本堂の柱と礎石 '10.03.29.13:06>
 この日の奈良は目まぐるしく天気が変わった。どんよりとしていたかと思うと晴れ間が広がって来たりいきなり雪が降って来るといった具合だ。しかし懐かしい風景である。二年前に来た時もやはり曇り空で寒かった。

 ところで、昔の技術や叡智が優れていた一例として挙げるけれども、「日本刀」は鎌倉時代に作られたものが最高で、それ以後質は落ちる一方であったという事をご存じだろうか。悪くなった一番の原因は良い砂鉄が鎌倉時代以降採れなくなったという事が上げられている様だけれどそうとばかりは謂い切れない。鎌倉幕府が出来て以降元寇の襲来や足利尊氏の挙兵を除いて大きな戦乱が無かった事にも原因がある様な気がしてならない。そして室町幕府や守護大名衰退の原因となった応仁の乱から戦国時代に突入するのだが、その頃にはもう鎌倉時代以来の鍛冶の技術はかなりの部分が忘れ去られ技術の伝承は廃れたと考えられる。安土桃山時代を経て江戸時代になってから工芸品、美術品としての刀が持て囃されたのだけれどそれはもはや本当の刀ではなかった。実戦で使われる刀こそ本当の刀なのであり実戦で使われてこそ技術の進歩というものがあるのだ。しかし実戦から遠ざかる事によって一度技術の伝承が廃れ途切れたものは元に戻る事はない。何故なら古来、技術の伝承は「口伝(くでん)」であったからだ。だから現代の刀鍛冶が、たとえその人が人間国宝だとしても、良い刀を作れるとは限らないとわたしは思っている。多分江戸時代の名刀と言われる業物の大半も剣戟をすればたちどころに刃こぼれするか折れる事だろう。所詮工芸品である刀に実戦で鍛え上げられた刀が負ける訳がないのである。それこそ太刀打ちできない事だろう。現代人でその事を日々見極め知っているのは多分日本刀の研ぎ師だけだろう。

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<わたしは連子窓が好きだ '10.03.29.13:08>

 だから戦国時代になって武将はいざ知らず雑兵は刀を何本も差して戦いに臨んだんだね。時代劇に出てくる様な二本差しじゃないんだよ。
 本物の日本刀を持たせて貰った事があるのだけれど、実のところ日本刀は一本でもかなり重たい。わたしは体力は結構あるのだけれどそのわたしでもこれを振り廻すのは容易ではないとその時感じた。日本刀の刀身は大体が二尺六寸である。78cm程度の長さしかないが、これが実に重たい。それより短い脇差しとて片手で安易に振り廻せる代物ではない。それにもかかわらず戦国時代の雑兵はそれを三本から五本も腰に差したり背負って戦いに臨んだ。何故かって?・・・それは刀がすぐに折れたり曲がったりして使えなくなってしまったから。戦闘で折れたり曲がったりしたらその場ですぐに捨てて次の刀を手にした。これが戦国時代の戦闘の実体だそうだ。つまり戦国時代には総じて刀鍛冶の力は大分落ちていた事の証左に他ならない。

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<トンネル効果みたいなこういう情景がいいね '10.03.29.13:08>

 境内は観光客が多いにも関わらず思いの外ひっそりとしている。勿論人々の声は聞こえるのだが一切が耳に届かず静謐ささえ感じるのだった。

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<妻側(正面ではなく側面という事)から本堂を見る '10.03.29.13:13>

 実は二年前の西暦二〇〇八年は正月ばかりではなく九回ほど奈良に来ている。

 正月に奈良を訪れて二週間後にわたしは仕事に復帰した。復帰したというのは前年末に椎間板ヘルニアの手術を受ける為に離任し、手術の成功と術後の経過が良かった為に同じ工事に戻る事が出来たのを指す。仕事は超高層ビルの建設敷地内にそこに戦後暫くして解体された明治時代の西洋建築物を建てるものだったのだが復帰後はその屋根工事全般を担当する事になった。とは云ってもわたしはあくまで使われる身であり単なる一図面担当者に過ぎない。しかしわたしは元々趣味ではあったが寺社建築が大好きであちらこちらの木造建築物を見て廻っていたし、(だからこそ奈良を訪れたのだが)それがまったくの偶然とはいえ縁があって新しく担当となり仕事そのもので何度も奈良を訪れる事になったのである。

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<曇天に桜の花は映えないなぁ '10.03.29.13:20>

 とは云っても仕事だから観光などする時間はない。いつも日帰りで朝早くから夜遅くまで仕事をしていた。桜井の駅(正確には近鉄、大和八木駅)に昼前に降り立ち夕方夜には帰って行く。仕事場へはいつも藤原京の跡地の脇を通って行った。明治時代の建築物の復元の仕事には、どうしても技術力のあると云おうか匠の技が必要になり、結局のところ奈良の大工さんの力をお借りすることになった。通常の木造建築を手掛ける大工さんではスキル不足だったのだ。わたしはその検査で奈良を何度も訪れなければならなかった。思えば夏の暑い盛りから秋口まで四ヶ月程良く通ったものだと思う。この工事を通して大工さんから教わる事は多かった。しかしそれは大工さんも同じであったろう。

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<最近は温暖化の影響で苔が枯れてしまうのだそうだ '10.03.29.13:21>

 大工さんの過半は宮大工であった。しかし仕事は洋小屋組の仕事だ。勿論宮大工の殆どにとっても洋小屋組は初めての経験である。わたしは和小屋も含めて小屋組そのものの経験がなかったがこの事を機に随分と勉強をしたし、させて貰った。宮大工は普通は住宅などの仕事はしないし明治時代の西洋建築の復元などもする事はない。しかし当時の図面のいくつかと、当時の建築物の部品若しくは部分は何とか残っていたし、新しい設計図も構造解析もあったが細部までは分からない事が多かった。手探りの中で監理設計事務所やゼネコン担当者も含めて大工さんとわたしはああでもないこうでもないといろいろ議論を交わしたものだ。
 新しい経験は前例がないだけに苦労も多いが新たな創造を生む。少ない資料から当時の小屋組を再現するのはとても根気の要る仕事だ。ある意味考古学に近かった。仕事は復元だが不明なところは創造(想像ではない)するしかないのだ。創造するにも根拠がいる。そこを施主に説明し納得して貰う過程もまた面白かった。そしてこの仕事は後にも先にもわたし達だけが経験し成し遂げたという充実感があった。大きなプロジェクトの末端の一員に過ぎないし名前さえ残らないわたしだが、後人が成し得ない仕事に実質的にも最前線で関われた事はわたしの一生の宝となった。こういった切磋琢磨は何度しても心地良い。その時の面白いエピソードや苦労話など沢山あるのだけれどブログでそれに触れる事はない。多分この事を語るのも後にも先にも今回だけだろう。

 今でもわたしの書いた図面やスケッチは大切に保管している。

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<薬師寺へと続く道の路傍にて '10.03.29.13:29>

 此の道はいつか来た道。ああそうだよ。ムスカリの花が咲いてた。

 薬師寺に続くこの道にはいつも彩りがある様に思える。二年前の一月に訪れた時は水仙の花や南天の実がきれいだった。柿の実も落ちずに残っていたっけ。

   

<つづく>

 


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コメント 12

どぼちょんぱぱ

奈良には色々と思いがあるのですね。
私は成人してから奈良に住んでいますが
最近になってその魅力を実感しています。
いにしえの人々のエネルギー、技術は素晴らしいですね。
by どぼちょんぱぱ (2010-08-15 10:59) 

bamboosora

僕も奈良には特別なものを感じたことがあります。
奈良市内から西名阪に乗らずに名阪国道へ行く途中に通った国道25号線で、
斑鳩や法隆寺の辺りのなんか荘厳な雰囲気が、もう何年も経っているのに、
いまだに忘れられなかったりしますもんね。
この感覚は京都に行った時には感じなかったことです。
by bamboosora (2010-08-15 18:10) 

吟遊詩人41

高校の修学旅行で行きましたが、17歳のワタシには大仏様の鼻の穴と同じサイズの柱の穴の事しか記憶に残ってないです(-_-;)
あれから29年・・・成長してないですわ^^;
by 吟遊詩人41 (2010-08-15 18:29) 

スミッチ

いい仕事ができてよかったですね
なかなか得がたい経験ですね
前例がないだけに苦労もされたようですが、
創造を生みながらの仕事なんてなかなかできんですよね
by スミッチ (2010-08-15 20:56) 

青い鳥

約束を守るのは大切な事ですよね。
近頃の民主党政権は「君子は豹変する」とばかりに約束の変更の発言を続けています。
その中でぶれなかったのは、仰る通り小沢一郎氏ですね。
奈良は東大寺、薬師寺、春日大社、飛鳥寺に行っただけです。
by 青い鳥 (2010-08-15 21:58) 

nyankome

奈良は落ち着くので好きな場所です。
毎週末奈良のあちこちに出掛けていた時期がありました。
京都のお寺は素晴らしいけれど、洗練されていて落ち着かなくて。(^^;)
by nyankome (2010-08-15 22:17) 

Silvermac

奈良には、昭和30年代半ばに約十ヶ月いました。在阪時期には何度か訪れましたが、もう一度行きたいと思っています。
by Silvermac (2010-08-15 22:30) 

momotty

U3さん、こんばんは~!暑い夏もあと残すところでしょうか、
まだまだ残暑厳しいですので、お体ご自愛ください<(_ _)>

3月に行かれた奈良の旅行の時の写真ですね。
半年間も写真、温存してたのね・・・笑
by momotty (2010-08-15 23:29) 

楓〇

漢字の字体は、いろいろあるみたいです。
「界」も異字体のようですね。

U3様にとって奈良は
仕事を通じて思い出深いものになったのですね。

by 楓〇 (2010-08-16 05:45) 

たいへー

奈良は久しく行ってません。
古き良き都などの風景は、
年々憧れるようにはなってきましたが・・・
by たいへー (2010-08-17 10:46) 

くまら

約束・・・確かに・・・
by くまら (2010-08-17 12:07) 

みそぎ。

温暖化で苔が枯れてしまうなんて・・・。
by みそぎ。 (2010-08-17 13:17) 

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