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『続々・異なるを以て常とす』 [随筆]

 とっておきの写真とかお気に入りの写真というものが誰にでもあると思う。昨年の大晦日茨城のとあるスパに行っての帰りにその駐車場でこんなビンテージカーを見つけました。もちろんビートルですが恐ろしくボロでボディーのあちらこちら錆びだらけで穴が開いている。ワイパーは半分動かないと思われ、バンパーは番線で縛り付けてかろうじて落下を防いでいる。そんなビンテージカーと云おうかオンボロ車である。中には寝袋・鍋・釜など所帯道具一式が詰め込まれていた。それを見る限り、路上生活者ならぬ車上生活者なのだろう。何故かフロントガラスの中央上部に若葉マークが貼ってあったが、たぶん持ち主は紅葉マークが似合う年齢だと想像される。 

old_vintage_car.jpg 

 『続々・異なるを以て常とす』・・・のはじまりです。

 <強くなれ!> 

 人に裏切られた事はあっても騙された事は一度もありません。

 半世紀以上生きて来て本当に一度もないのです。

 幼い頃から人や生き物との別れを数多く経験したものだから絶対的な存在などないと子供ながらに諦観の様なものを感じていた。だからなのか「君子(じゃないけど)の交わりは淡きこと水の如し」と思っていて、老若男女に限らずたとえ好意好感を持った人であってもそれらに固執したり執着する心がない。猜疑心も警戒心も人並みだと思うけれど拘泥するものがないから初めから人の姿の輪郭がおぼろげながら見えてしまう。だから人との関わりの先が何故か読めてしまうのですね。それが人に騙されない事に繋がっているのかなと思っています。

 最初に人に裏切られたと書きました。しかし初めからそうなると分かっていてその方とお付き合いしたので悔いはありません。あれは最初で最後の思慕だったと思っています。その人は初めからわたしの方など見ていない、近付けばわたしを利用するだろうと気づいていました。だとしたら結果的にわたしの思っていた通りになったのだから裏切りではないという見方もあり得ます。

 人に騙されない。それが本当に良い事なのかそうでないのかわたしには分かりません。何故なら人を心から信じられる人は幸せだと思っているからです。

 たぶん、正直で相手を疑わない純な人ほど騙されやすいのだと思います。そう云う意味でわたしは不純で正直者ではないのかも知れません。何しろ絶対的なものなどないと思っているのですから徹頭徹尾人を信じる覚悟はわたしには初めからないのです。ですから何かを心から信じる事が出来ないし何かにすがる心も存在しない。ですから家は眞言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)ですが信心はほどほどです。いかなる宗教であれ哲学であれ人それぞれ真実や真理は存在し、それはたった一つだと思っていますがそれを生きている間に見つける事は不可能だと思っています。また探し求めてもいません。 何故ならわたしにとってそれは無意味だからです。こんな事を書くと醒めた人であるとかクールだなどと誤ったイメージを持たれてしまうので改めてお話し致しますが、わたしの生き来し方注1)はまったく格好がよろしくない。時に我武者羅でまったく融通が利かないほど自分に正直、そして権力におもねらない直言居士であったからそれこそ何度も挫折を繰り返して来たしその懊悩は相当なものだ。そしてこれから行く末もまたそうであろう。

注1)生き来し方。 今まで過ごして来た生き方その姿勢を云う。人はこれを「生き様」と呼ぶ事が多い様だがもともと古来の日本語にそういう言葉はなく、「生き様は死に様に通ず」という説もありあまり縁起のいい言葉ではない。以前勤めていた会社の社長が「俺の生き様」というフレーズを好んで使っていたがあまり様の良いものではなかった。それが格好がいいとでも思っているのか自慢気にその言葉をのたまう姿が阿呆そのものの様にわたしには思えたものだ。つまり無様で醜悪であった。こんな愚か者が天辺にいるのかと思うと情けなくなって自分の意思で退社したが正解だった。今その会社は傾いている。

 当然の事だが直言居士はどうしても廻りから浮く。直言居士なんて実は格好のいいものじゃなくて愚か者の遣る事だとわたし自身は思っていて事実その通りなのだと思う。しかし、小さい頃のわたしがそうだった訳ではない。苛めらしきものに遭ったのはたぶんむしろわたしが茫洋としていたからだと思う。つまり廻りからは馬鹿に見えたのである。わたしからすれば苛めに加わっている者の方が遙かに愚かで下等だと思っていたから気にはしなかった。ただ家族や家の事を云われると無性に腹が立ち言った者に素手で向かって行った。そして相手はそれ以降わたしの目の前で悪口などは言わなくなった。が、それは表だって言わなくなっただけの事でありかえって陰湿になったと思っている。子供は純粋だとはよく言うがそれは嘘だとわたしは小さい頃から知っている。子供の狡猾さや陰湿さは大人顔負けである。いや、むしろ経験が浅く未熟で理性が働かないだけにそれは空恐ろしいほど残忍だ。そしてその醜い心根は自分と異なる者や自分より弱い者に向けられるのが常だった。

 わたしが遣られた苛めとは先生に陰口を言い、それを信じた担任教諭にビンタなどの暴力を振るわれるというものだった。わたしの経験からすれば苛める子ほど先生や学校には優等生として見られている事が多かった。そして苛められる子は劣等生というレッテルを貼られる。小学生ではたとえ高学年になってもこんな理不尽な事でも何の反撃も反論も出来ずに泣き寝入りするのが常なのだ。以前に何度も書いているので割愛するけれどわたしの場合は違った。遣られたら遣り返す。その場で遣り返さなければ禍根を残すだけなのだ。それがわたしの結論だった。目には目を、歯には歯を。担任教諭には一番弱いところを文字という武器で突いた。でもそれはわたしだから出来た事。他の人には出来ない相談だろう。

 今のわたしに云える事。それは強く在れ、人が苛めの存在に気づくまでけして負けるな。遣られたら遣り返せと云う事だけである。つまりエールしか送れない。苛められる子は人とどこか違っていて一見弱々しい。そして実際にも弱い者が殆どである。だから尚更苛められる。その状況を打開する手立てはただ一つ。苛めが今ここに存在するという事実を一刻も早く廻りに知らしめる事。自分一人で悩んでいても状況は悪くなるばかり。自分が悪くないのに何故自分を取り巻く状況が悪くなるのか。それは廻りに居る誰もがそうなっている事に気づかないからだ。もしくは見て見ぬ振りをしているからだ。だとしたら誰かがそれに気づくまで大声を出してでも振り向かせるしかない。

 「今ここに在る危機」

 れを知らしめない限り異なる者が生きる道はない。理不尽なものにはその場で立ち向かえ。どんな弱い者でも声は出せる。声を出せない者は大音をたてろ。少しでも力のある者は力で返せ。文章力があるならペンで戦え。あらゆる手段を総動員して叫べ!

 魂の叫びに気づかない振りをする様な者は人間ではない。

  以上で『異なるを以て常とす』シリーズを終えたいと思います。人と異なるのは当たり前です。異なる事を理由にし人を排除すればいずれ自分もその憂き目に遭います。何故ならば人は常に誰でも「異」そのものだからです。

 「いにしえの都奈良」、「英国旅行記」、「日本は近隣諸国とどう向き合って来たか」 シリーズはいつ再開するのか未定です。飽きっぽいわたしはfacebookももう飽き始めています。友達を拡大する積もりはないのでフォロアーが殆どいない有り様で、書いた事が殆ど人の目に触れないのであれば継続するのも意味がないと感じ始めています。こんな事ならfbのメッセンジャーで個別に連絡を取り合った方が遙かに有益というもの。かといってわたしにとってブログは大変な労力が要る割にどういう訳か充実感や達成感が日光の手前、つまりいまいち(今市)だ。

 労力が一緒ならいっそiBOOKやKindleで書籍として公開した方が良くはないかと思う今日この頃である。でもその為にはMACを買わなければ編集ソフトがない。MACを買うには先立つものがない。

 でもわたしの文章程度なら無料でも誰も読まない。八方塞がりとは将にこの事。

 いつもnice!もコメントも返さないわたしをお許し下さい。その気力も体力も今の自堕落なわたしにはありません。悪しからず。 


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コメント 8

くまら

何となくですが判るような気がします。
私が子供の頃も、勉強ができる優等生=苛めを指導する者であり
実行するのは、その取り巻き立ち
彼らとの関係は着かず離れず微妙な距離を保つのが肝要。
それを守らなければ、いつ対象になってもおかしくなかったから
私も、何度か苛めなる物経験しましたが
やっぱり、頭を過ったのは強くなる事。
決して負けない事、そしていつか観返そうと努力することだと
by くまら (2013-03-10 09:04) 

たいへー

自分の生き方を貫けばいいのでしょうね。
良くも悪くも自己責任。^^
by たいへー (2013-03-10 09:36) 

ソニックマイヅル

うちの父もむかし、ビートルに乗っていました。また今は新たにモデルチェンジしているんですね。^^;
by ソニックマイヅル (2013-03-10 15:35) 

青い鳥

陰口を真に受けた担任教師が暴力をふるったのですか?
事実を確かめもせずそんな事をするとは許せませんね。
私にも似たような事がありました。
小学校3年生の冬に体育の見学をした事があります。
寒いので、教室で自習する様にと言われました。
私の他に数人が見学したのですが、彼らは退屈して教室で遊び出したのです。
その騒音で両隣の教室の先生から怒られたら、彼らは「私が遊ぼうと言ったから」と言い逃れたのです。
担任は一方的に彼らの言を信じ、その事実を認めない私に対して
「謝罪するまで帰宅を認めない」と言い、暗くなっても帰してくれませんでした。
心配した母が学校まで来て担任から事情を聞き、私にも事実を確かめ、
「やってもいない事を認めるようにとは教えていない」
と言って、私を連れ帰ってくれました。
その担任、母に「頭がいいから自分が煽動しても見付かる前に
抜け出して勉強したふりをする事など簡単だろう」と言ったそうです。
以後、私は「あんな教師には絶対ならない」と心に決めて現在に至っています。
by 青い鳥 (2013-03-10 17:21) 

U3

☆くまらさんへ
 今も昔も変わりませんね。
by U3 (2013-03-10 20:13) 

U3

☆たいへーさんへ
 なかなかできないけれどね。
by U3 (2013-03-10 20:13) 

U3

☆ソニックマイヅルさんへ
 旧ビートルは本国ドイツでは1978年に生産を終えており、主にブラジルなどで細々と生産されていました。いまのニュービートルは全くの別物です。
by U3 (2013-03-10 20:19) 

U3

☆青い鳥さんへ
 初志を貫かれたのですね。素晴らしい事です。
 わたしはあの教師を今でも許していません。わたしを問題児と決めつけ徹底して暴力を振るわれましたからね。わたしの母もわたしの作文の内容が問題になり呼び出された時に毅然としていたので誇らしく思いました。その教諭も今は鬼籍に入っているものと思われます。
by U3 (2013-03-10 20:25) 

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